中村御所(なかむら) | |
別称 : 一条氏館、愛宕山城、一条御所 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 一条教房 | |
遺構 : 井戸 | |
交通 : くろしお鉄道宿毛線中村駅よりバス 「一条通」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 応仁元年(1467)に勃発した応仁の乱を避けて、元関白一条教房が自領のある 土佐国幡多荘に下向すると、土佐国人はこれを迎えいれた。教房は中村に居館を 築き、一条氏は次第に戦国大名化していった。 天正元年(1573)、為松・羽生・安並の三家老は、一条兼定を強制的に隠居させ、 兼定の嫡男内政に家督を継がせた。三家老の専断に不満を抱いた加久見左衛門 ら一条家臣は、中村に攻め入って3氏を滅ぼした。内政の後見であった長宗我部 元親は、これを機に内政の保護を名目に中村に進駐した。内政は大津城へ移され、 兼定は追放された。中村には元親の弟吉良親貞が入ったが、以後の中村御所の 扱いについては定かでない。 天正十七年(1589)の検地帳には、森山の西の「御土居」が「散田」として記載 されている。遅くともこのときまでには、居館としての中村御所は廃されていたもの と推測される。 <手記> 中村御所の構造については必ずしも詳らかではありませんが、一条神社の建つ 森山を中心に、西に御殿、東に政所と寺社を配した南北方向に長い長方形の居館 だったと推定されています。 森山の上には維摩堂があるだけで、城砦化はされていなかったようです。平地は 市街化していて遺構はありませんが、神社参道石段中途を西に入ったところに、 唯一の現存遺構といえる「御化粧の井戸」があります。当時7つあった井戸の1つ で、今も水を湛えています。 また、参道石段下や境内に石碑や説明板があります。 |
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一条神社。 | |
石碑その1。 | |
石碑その2。 | |
御化粧の井戸。 |