大津城(おおつ) | |
別称 : 天竺城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 天竺氏 | |
遺構 : 曲輪跡、土塁、堀 | |
交通 : 土佐電鉄清和学園前電停下車 | |
<沿革> 大津城は、天竺氏の居城として築かれたものと思われるが、詳細は不明である。天竺氏は 細川氏の庶流と伝わるが、その系譜については明らかでない。 『土佐国編年紀事略』によれば、文明十年(1478)に津野之高が大津城を攻め、城主天竺 孫八郎花氏は戦死したとされる。その後、天文十五年(1546)に津野氏が一条氏に降伏する と、大津城には一条氏の将が送られた。しかし、翌十六年(1547)、長宗我部国親が大津城 を攻略したとされる。 また『土佐物語』によれば、国親は大津城に天竺孫十郎花氏を攻め滅ぼしたとされている。 このように、長宗我部氏による大津城攻略にいたる経緯については不明な点が多い。 永禄三年(1560)、国親は大津城から船で兵糧を種崎城まで運ぼうとしたが、途中本山氏 の潮江城の兵に襲撃され、積荷を奪われた。これを契機に、長宗我部氏と本山氏の衝突は 不可避となり、長宗我部元親の初陣ともなった長浜戸の本の戦いへと発展した。 天正二年(1574)、一条兼定が追放され、元親が幡多郡を手中に収めると、元親は兼定の 嫡子内政を大津城に移した。内政は元親の娘と結婚し、大津御所と呼ばれた。 天正八年(1580)、元親の妹婿である波川清宗が謀反を企み、内政もこれに加担したもの と疑われた。内政は土佐を追放され、その子政親は久礼田城へ移された。 これにより、大津城は廃城になったものと思われる。 <手記> 大津城は、舟入川が麓を洗う独立小丘上に築かれた城です。現在、本丸跡には天竺神社 が祀られています。城跡へは、土佐電鉄の清和学園前電停から線路沿いに西に少し歩いた ところに天竺神社参道の石段があるので、これをひたすら登ります。参道脇には石碑と説明 板があるのですが、線路脇をなぜか線路に向いているので、これを読むのは命がけです…。 参道によって一部削られているものの、本丸と東側の曲輪、その間の堀や土橋が良好に 残っています。参道を登りきった先の曲輪からは、岡豊城が指呼の間に望むことができます。 むしろ、岡豊城から見下ろされているといった感じでもあります。とりわけ一条内政は、ここに いて監視されているとの思いに、かなり息が詰まっていたのではないかと思われます。 長宗我部国親の大津城攻略までの経緯がかなり混乱していますが、私は、国親侵攻時の 城主は天竺氏だったものと考えています。もし一条氏の属城となっていたのであれば、いか に国親といえども、家名復興の大恩ある一条氏に弓引くことはできなかったと思われるから です。一度は津野之高に逐われたものの(この津野氏による攻略という点にも引っかかって いますが)、津野氏が一条氏に敗れて弱体化したところを狙って、天竺氏が大津城主に復帰 したとも考えられます。 |
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大津城址碑と案内板。右手が登山口の階段。 | |
土橋を隔てて本丸の天竺神社を望む。 | |
本丸から東の曲輪を望む。 | |
大津城址から岡豊城址を望む。 |