山田城(やまだ)
 別称  : 楠目城
 分類  : 山城
 築城者: 山田氏
 遺構  : 曲輪跡、土塁、堀
 交通  : JR土讃線土佐山田駅よりバス
       「山田農協前」バス停下車徒歩15分


       <沿革>
           甲斐源氏武田信義の嫡男一条忠頼の家臣中原秋家は、建久四年(1193)に香美郡宗我郷と
          深淵郷の地頭に任じられた。秋家の主君忠頼が源頼朝の命により暗殺されると、秋家は忠頼の
          子秋通を養子として迎え入れた。秋通は、秋家から地頭職を譲り受けて香宗我部氏を名乗り、
          秋家は香美郡山田に移って山田氏を称した。山田城は山田氏の居城として築かれたものだが、
          いつごろ誰によるものかは詳らかでない。
           山田氏は、戦国期に入って土佐七守護の1人に数えられるほどの勢力を保持した。永正五年
          (1508)に、山田基通(元義)は本山養明の発起による対長宗我部連合軍に加わり、岡豊城
          攻め落とした。
           しかし、長宗我部国親が一条氏の斡旋により岡豊城に返り咲くと、仇敵とばかりに山田氏は
          国親の攻勢に晒された。天文十八年(1549)、ついに国親は山田城を襲って落城させた(天文
          二十年(1551)とする説もある)。
           落城後の山田城および山田氏については伝えられていない。おそらく、そのまま自然廃城と
          なったものと考えられる。


       <手記>
           山田城は、物部川が平野部に出る喉口部にあり、眼下を土佐中街道が走っています。城へは、
          鏡野中学校直下の十字路を東に向かい、小道をしばらく進むと左手に案内板があるので、そこ
          から山道を登っていきます。ほかにもルートがあるようですが、この道を行くとまもなく二ノ段下に
          着きます。
           二ノ段下には、土塁と空堀が比較的良好に残されていて、登城者を圧倒するでしょう。しかし、
          二ノ段や詰ノ段に至る道が藪の中で全く分からず、しばらく竹藪をかき分け登ってみたのですが、
          途中で断念しました。
           今度は西側に向かうと、茶ヶ森と呼ばれる曲輪があります。こちらもとりたてて道らしきものは
          なかったのですが、意を決して登ってみると、曲輪の東側に大きな堀切が残っていました。また、
          茶ヶ森も小さな曲輪ではありますが、周囲を土塁の痕跡と思しき土盛りが巡っていました。
           遺構自体はそこかしこに残っているようなので、冬場にもかかわらず登れないというのはかなり
          残念に感じました。

           
 南西より山田城址を望む。
城南側の登城口。 
 二ノ段下の空堀と土塁。
 茶ヶ森東側の堀切。 
 茶ヶ森のようす。


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