岡豊城(おこう) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 長宗我部氏 | |
遺構 : 石垣、土塁、曲輪、堀、礎石など | |
交通 : JR高知駅よりバス「歴史民俗資料館」バス停下車 | |
<沿革> 「土佐の出来人」と称された長宗我部元親の居城として知られるが、その創建については不明で ある。南北朝時代に、長宗我部氏は岡豊の南東方面に一族を配して勢力を伸張していることから、 この頃には岡豊山に長宗我部氏の居城が築かれていたと考えられている。『土佐物語』によれば、 もともとは長岡郡の府城ということで「岡府城」と書いていたものを、城山の西尾根にあった豊岡上 天神社から吉祥の「豊」の字を申し受けて充てたものとされる。 康暦二年(1380)に細川頼益が土佐守護代として入国すると、長宗我部氏は細川氏の庇護下に 入り、勢力を拡大した。しかし永正四年(1507)に細川政元が暗殺されると、長宗我部氏は後ろ盾 を失い孤立した。翌五年五月(1508)、長宗我部氏打倒を図った本山養明が、山田・大平・吉良ら 周辺諸豪族を誘い、岡豊城を攻囲した。長宗我部兼序は奮戦したが、糧道を絶たれ、味方からも 離反者が出たため、嫡子の千雄丸を脱出させた上で自害した。 千雄丸は土佐中村の一条氏を頼り、その庇護下で成人して国親と名乗った。一条氏の仲介に より、国親は岡豊城と江村・廿枝の2郷を返還された。その後、岡豊城を拠点として瞬く間に香長 平野を席巻した。永禄三年(1560)、嫡男元親の初陣となった長浜戸の本の戦いに勝利して間も ない六月十五日、国親は岡豊城で死去した。 跡を継いだ元親も引き続き土佐平定に邁進するが、永禄六年(1563)に東隣の安芸氏との関係 が悪化した際に、元親が本山氏討伐に赴いている間隙を突いて、安芸国虎が一条兼定の援軍を 加えた5千の大軍を率いて岡豊城に攻め寄せた。このとき、城の守備兵は5百人ほどであったが、 城兵の奮戦と夜須から駆けつけた吉田重俊の援兵によって、安芸軍を追い返すことができた。 この戦い以降、岡豊城が戦火に晒されることはなく、四国の雄元親の居城として機能し続けた。 天正十三年(1585)の羽柴(豊臣)秀吉の四国攻めに際して、元親は白地城で指揮をとったが、 同年中に降伏して土佐一国を安堵され、再び岡豊城に戻った。 天正十六年(1588)、元親は大高坂城(現在の高知城)を改修して移ったが、同十九年(1591) には浦戸城を築いて新たな居城とした。浦戸城が完成するまでの間は、岡豊城に居住していたと される。浦戸城の完成により、岡豊城は廃城となった。 <手記> 岡豊城は、南東に香長平野を見渡せる標高97mの独立山上に築かれています。眼下に国分川 と左右山川が流れ、城の東側には古くは土佐国府が置かれていました。山容険しいという訳では ありませんが、周辺から見ると結構目立つ山です。この山上に城を築いて勢力を拡大するとなると、 本山氏ならずとも相当な圧迫感を周囲に与えたであろうことは、想像に難くありません。 ただし、先にも書いた通りさほど険しい山とは見受けられないため、防御能力についてはいささか 疑問であるといわざるを得ません。斜面にかなりの数の竪堀を設けているのも、そのような弱点を 補うためと思われます。 岡豊城は、県立歴史民俗資料館の建設に伴って発掘調査がなされ、史跡公園として整備されて います。詰の段には天守相当の高層建築があったと考えられていて、その礎石が地表展示されて います。また三の段の土塁内側には、基盤に石垣が用いられています。ただし、現在目にできる 遺構は当然ながら元親による最後期のものであり、兼序の代に落城したときの規模がどの程度で あったかなどは依然不明です。とくに、詰の段東下や三の段の建物は敷地一杯に築かれており、 かなり後になって増築されたとの感が否めません。 平時の居館は、城下町や国府跡に臨む城の東麓、現在の岡豊小学校や岡豊保育所のあたりに あったと考えられています。その直上にある歴史民俗資料館の敷地には、大手を押さえる何らかの 曲輪があったのではないかと拝察されます。 近年人気の高まりつつある長宗我部元親の居城であり、かなりきちんと整備された城跡ですので、 訪れてみる価値はとても大きいと思います。 |
|
岡豊城址遠望。 山の右裾の白い建物が県立歴史民俗資料館。 左に連なる小山が伝厩曲輪跡。 |
|
詰の段と天守様建築の礎石。 | |
詰の段下の曲輪の建物礎石。 | |
二の段のようす。 | |
三の段の石垣を伴う土塁と、建物礎石。 | |
四の段の虎口。 | |
四の段南側にある城址碑。 | |
伝厩曲輪のようす。 | |
西斜面の竪堀。 |