鶴ヶ城(つる)
 別称  : 羽根城
 分類  : 平城
 築城者: 大町政近
 遺構  : なし
 交通  : JR高山本線速星駅徒歩30分


       <沿革>
           神保家臣の二塚城主・大町(大間知)民部浄安の子・兵庫政近によって築かれたとされる。
          現地説明板には、天文七年(1538)に富崎城とともに落城し、永禄二年(1559)に富崎城が
          神保氏によって再興された際、政近の子・兵庫安政が再び鶴ヶ城を築いたとある。ただし、
          天文七年の富崎落城に相当する事跡はみられない。
           永禄年間(1558〜70)、上杉謙信方に攻められ鶴ヶ城は富崎城と共に落城したとされる。
          同5年(1562)に神保長職が謙信に降伏しているため、このころの出来事とみられるが確証
          はない。安政はそのまま帰農したと伝えられ、鶴ヶ城も廃城となったと推測される。


       <手記>
           『故虚考』によれば、羽村と下邑の間に大沼があり、その付近の鶴ヶ島に鶴ヶ城があった
          そうです。周辺は井田川とその支流の氾濫原で、上の地図に示したところに説明板が建て
          られているものの、土地改良により遺構はおろか正確な位置も分からなくなっています。
           説明板によれば、『故虚考』に辺呂川が西北に、2つの用水が東に、羽根新村が北東角に
          あると記述されているそうで、設置個所から北へ500mほどと推定され石材が出土している
          ということです。ただ、説明板から北へ500m行くと辺呂川を越えて下邑も横目に通り越して
          しまいます。今昔マップに照らし合わせる限りでは、記述の内容に合致するのはシルバー
          ケア羽根苑から羽根ピースフル公園にかけての範囲のように思います。あるいは「北東へ
          500m」の誤りなのかもしれません。とすれば、建設に先立って発掘調査が行われ、石材が
          検出されたというのも頷けます。

           
 説明板。
周辺現況。 
右手奥の施設付近が比定地か。 


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