富崎城(とみさき)
 別称  : 滝山城、福山城
 分類  : 平山城
 築城者: 神保八郎左衛門か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口、土橋、井戸跡
 交通  : JR高山本線千里駅徒歩30分


       <沿革>
           『三州志』によれば、嘉吉元年(1441)に神保八郎左衛門によって築かれたとされる。当時の
          越中神保氏当主は神保国宗とみられるが、八郎左衛門と同一人物なのかなど詳細は明らか
          でない
           本格的な整備は天文年間(1532〜55)ごろ、神保長職によって行われたと考えられている。
          また、縄張りは神保家臣水越勝重によるものとも伝えられ、城山東麓の本覚寺には永禄五年
          (1562)に勝重から田畠が寄進されている。この年、長職は越後の上杉謙信に攻められ降伏
          しており、これに前後して富崎城も落城したと推測される。なお、富崎北東の鶴ヶ城には天文
          七年(1538)に富崎城とともに落ちたとする伝承があるが、史料にはみられず真偽や詳細は
          不明である。
           元亀二〜三年(1571〜72)に長職が没すると、水越氏は一向一揆と富崎城に立て籠もり、
          上杉氏に反乱を起こしたが、同年九月に攻め落とされた。このときに破城されたものの、後に
          上杉氏が支城として取り立てたともいわれる。
           天正九年(1581)には、上杉氏に代わって越中を手中に収めつつあった織田氏に対し、寺島
          牛之助(盛徳)・小島国綱(甚助)兄弟が富崎城を拠点として抵抗した。しかし、織田家臣佐々
          成政に攻め落とされ、2人は大道城まで落ち延びた。その後の富崎城の動静については定か
          でない。


       <手記>
           富崎城は山田川右岸の丘陵地帯先端部に位置しています。地形的には山城なのですが、
          丘自体が緩やかで広々としているため、構造は崖端の城のそれとなっています。丘上からの
          攻撃には弱いため、反対側の崖端には支砦とみられる銀納砦があります。
           広大な丘は「丘の夢牧場」となっており、私が訪れたときは15時でゲートが閉まるということ
          で牧場には入れなかったのですが、ありがたいことに富崎城跡へはそのゲート手前を折れて
          行くので無事訪城できました。
           現地説明板には詳しい縄張り図が掲載され、城内も主郭は見学しやすいのですが、その他
          の箇所は藪に埋もれつつあり、図をトレースするのが少々大変でした。主郭と内堀の外側に
          副郭と外堀を配した縄張りで、規模は大きいとはいえませんが、堀の折れや喰い違いの虎口
          を多用した幾何学的な構造となっています。
           直感的にみて、少なくとも佐々成政の改修を受けていることは容易に想像できるでしょう。
          あるいは、前田利家・利長父子の代まで使用されていたかもしれません。そこまで要害地形と
          いうわけでもないこの場所に長らく拠点城が維持されたのは、東麓の本覚寺を中心に周辺が
          経済的に発展していたのかな、という推察が頭をよぎりました。

           
 現地説明板。
東辺外堀の土橋。 
 主郭下段のようす。
主郭下段から上段を望む。 
 主郭上段の城址碑。
主郭上段のようす。 
 主郭上段の井戸跡。
主郭南西隅の内堀と土塁。 
 主郭南辺の内堀。
主郭南辺の土橋。 
 土橋に付随する土塁。
副郭南辺の外堀。 


BACK