岩木城(いわき)
 別称  : 岩木砦
 分類  : 平城
 築城者: 塩屋秋貞か
 遺構  : 土塁
 交通  : JR高山本線笹津駅から車で10分


       <沿革>
           越中進出を図る飛騨国人・塩屋秋貞によって、元亀三年(1572)に城生城の斎藤信利を
          攻める際の対の城として築かれたといわれる。ことのきは信利が上杉謙信に救援を仰いだ
          ため、秋貞は兵を引き上げたとされる。翌天正元年(1573)には、秋貞も上杉氏の幕下に
          入り猿倉城に居を移し、岩木城には杉政三郎右衛門が城将として置いたといわれる。
           天正六年(1578)に謙信が没して御館の乱が勃発すると、秋貞は織田氏に通じたものの、
          『越登賀三州志』によれば上杉方の津毛城主村田大炊介に攻められ飛騨へ押し戻された
          とされる。ただし、同年十月には同じく織田氏に降った信利らの活躍により月岡野の戦いで
          織田勢が大勝していることから、秋貞もまもなく猿倉・岩木に復帰したとも考えられる。
           天正十年(1582)に本能寺の変が起こると、信利は再び上杉方に転じた。秋貞は織田方
          に留まったとみられ、翌十一年(1583)に城生城を攻めたが、上杉氏の救援もあり敗れた。
          飛騨へ退かんとしたところ、国境付近で上杉方の村田修理亮秀頼(前出の大炊介と同一
          人物か)に狙撃されて落命した。同年中には城生城も織田家臣佐々成政に攻め落とされ、
          主を失った岩木城はそのまま廃城となったとみられている。


       <手記>
           岩木城は城生城と神通川を挟んだ対岸の河岸上にあり、城生城と攻めのために築かれた
          という経緯があまりにもしっくりくる場所にあります。上図に示した点に墓地があり、その脇に
          今では掠れて文字が読めなくなった城址標柱が建っています。その後ろにあるのが土塁跡
          だというのですが、事前情報がなければ墓地にありがちなあれやこれやを積んだもののよう
          に見えてしまします。
           周囲は土地改良された水田が広がり、河岸の辺縁も歩いてみましたが、遺構らしきものは
          見当たりませんでした。ちょっと気になったのが、水田に囲まれて南側に腰巻石積みで固め
          られた土塁と防風林をもつ居宅が2、3軒あることです。直接的には城跡と結びつく感じでは
          ないのですが、あまりに痕跡がないので少々気になってしまいました。

           
 岩木城跡周辺現況。
 奥の墓地脇に標柱があります。
城址標柱(らしいのですが読めません…)。 
 標柱後ろの土塁跡とされる箇所。
土塁と防風林をもつ居宅。 
左奥が城址標柱のある墓地です。 
 岩木城跡から城生城跡を望む。


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