城生城(じょうのう)
 別称  : 城野城、城尾城、蛇尾城、天狗平城、恵智谷城
 分類  : 平山城
 築城者: 斎藤常喜か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、土橋、虎口
 交通  : JR高山本線東八尾駅徒歩30分


       <沿革>
           越中婦負郡南部の有力国人斎藤氏の居城である。越中斎藤氏は、貞治六/正平二十二年
          (1367)に藤原利仁の後裔と称する斎藤左衛門大夫入道常喜が、北朝方として楡原保を与え
          られたことにはじまるとされる(『聞名寺文書』)。ただし、築城はそれに先立つ文和年間(1352
          〜56)ともいわれ、経緯は定かでない。
           天文二十一年(1552)、井田城主斎藤(飯田)利忠は上杉謙信に従属する願海寺城主寺崎
          盛永に攻められ、城生城へ逃れたとされる(天神林の戦い)。当時の城生城主は斎藤伯耆守
          利基とみられるが、利忠との関係は詳らかでない。
           元亀三年(1572)には、飛騨国人・塩屋秋貞が城生城の東の対岸に岩木城を築き、斎藤氏
          を攻めた(『三州志』)。利基の子・次郎右衛門信利は謙信に救援を仰ぎ、その加勢によって
          秋貞を飛騨へ追い返すことに成功した。すなわち、このときまでに斎藤氏も上杉氏に帰属して
          いたことになるが、翌天正元年(1573)には秋貞も上杉氏の幕下に入り、猿倉城に居を移した。
           天正六年(1578)に謙信が急死して御館の乱が勃発すると、信利・信吉兄弟は逸早く織田氏
          に通じ、飛騨口から進出した織田方の佐々長穐・斎藤利治・神保長住らと共に月岡野の戦い
          で上杉勢を大いに打ち破った。兄弟の「信」の字は、この功により信長から与えられたものと
          されるが、それまでの2人の諱は伝わっていない。
           天正九年(1581)ごろから信利は再び上杉氏に接近したといわれ、翌十年(1582)に信長が
          本能寺の変で横死すると、越中国主佐々成政に反旗を翻した。翌十一年(1583)まで抗戦した
          ものの、ついに城生城は攻め落とされ、斎藤一族は飛騨へ落ち延びた。代わって成政の家臣
          佐々与左衛門が城生城主となり、婦負郡に1万俵の所領を与えられている。
           天正十三年(1585)八月、富山の役で成政が豊臣秀吉に降伏すると、神通川以西は前田
          利家に与えられた。このとき、成政は富山城に軍兵を集中させたため、城生城での攻防戦は
          なかったものと推測される。越中前田領は利家の嫡男・利長に任され、城生城には前田家臣
          青山吉次(佐渡)や篠島清了(織部)が入れられたとされる。廃城時期は定かでない。


       <手記>
           城生城は、神通川左岸の細長い半独立丘に築かれています。周辺は、神通川が飛騨国境
          の渓谷部から富山平野へ躍り出る喉口部にあたり、とくに飛騨口の押さえとして重要であった
          ことは容易に推察されます。西側の県道沿いから入れますが、私が訪れたときは道路の陥没
          で北からだと通行止めで、南側から歩いていかなければなりませんでした。
           長い丘の南側3分の1ほどが要害で、残り北3分の2は屋敷地とみられる広い削平地となって
          いるのが特徴です。登山道はそのまま主郭下の空堀に繋がっていますが、その規模たるや、
          思わず嘆息せずにはいられません。前田氏、あるいは佐々氏時代にすでに設けられていたの
          かもしれませんが、これだけの大きさの堀を見通しよく歩けるというのは、ありそうでなかなか
          できないように思います。
           堀の前方側には2段の曲輪があり、下段は枡形虎口の態を成しています。その先も喰い違い
          の虎口が続き、織豊期最終形態とも呼ぶべき厳重な造りを拝めます。他方で、主郭は櫓台に
          してもやや狭い、実用性には乏しい構造をしており、この部分は斎藤氏時代の地形を踏襲して
          いるようにも感じられました。
           屋敷部には区画を成す仕切り土塁はあるものの、要害性はほとんどありません。斎藤氏時代
          にもおそらくここに居館が営まれ、眼前の塩屋秋貞と対峙していたのでしょう。また、登城口の
          すぐ上で脇に反れると、屋敷部西側中腹の腰曲輪群に至ります。こちらも、佐々氏や前田氏に
          とって重要な区画とは思えず、斎藤氏時代の名残ではないかと考えられます。

           
 岩木城跡から城生城跡を望む。
登城口。 
 主郭下の空堀と主郭切岸。
主郭下の空堀。 
 同上。
同上。 
 主郭前方、上段の曲輪の虎口跡と土塁。
主郭前方、上段の曲輪。 
 同じく下段の曲輪。
下段の曲輪の虎口。 
 その下の喰い違い虎口。
さらにその先の虎口。大手か。 
 大手の竪堀。
副郭と主郭へ通じる土橋状土塁。 
 土橋状土塁を上から。
石塁跡か。 
 主郭のようす。
主郭の城址碑。 
 副郭の虎口跡か。
三の郭のようす。 
 三の郭の土塁と空堀。
屋敷地とみられる広大な削平地。 
 区画を成す仕切り状土塁。
屋敷地西側中腹の腰曲輪群。 
 同上。


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