富山城(とやま)
 別称  : 浮城、安住城
 分類  : 平城
 築城者: 宮崎長康か
 遺構  : 石塁、土塁、堀、削平地
 交通  : あいの風とやま鉄道越中宮崎駅徒歩60分


       <沿革>
           一般には天文十二年(1543)ごろに、越中東半の新川郡への進出を図る神保長職が、
          家臣の水越勝重に命じて築かせたのがはじまりとされる。しかし、近年の発掘調査に
          より、少なくとも室町時代前期には城館が存在したことが明らかとなっている。
           永禄二年(1559)、長職の圧迫を受けた新川郡分郡守護代椎名康胤は越後の長尾
          景虎(後の上杉謙信)に支援を要請した。翌三年(1560)には、長尾軍により神保氏は
          逆に富山城を攻め落とされた。同五年(1562)九月、反撃に出た長職は神通川の戦い
          で上杉・椎名連合軍に大勝し、康胤の居城松倉城まで攻め入った。しかし、翌月には
          態勢を立て直した上杉勢に再び攻め込まれ、長職は居城増山城を囲まれるに及んで
          降伏した。この間、富山城で戦闘があったかどうかは定かでない。城は上杉氏の所有
          となったとみられているが、城将などについては不明である。
           謙信死後の天正六年(1578)、織田信長を頼っていた長職の子の長住は、織田氏の
          支援を受けて越中に攻め入り富山城を奪取した。同十年(1582)三月、神保氏旧臣で
          織田氏に降っていた小島職鎮と唐人親綱らが上杉氏に通じ、富山城を急襲して長住を
          城内に幽閉した。城はまもなく織田軍に取り返され、長住も救出されたものの、責めを
          負わされ追放された。これを受けて、越中一国はすでに半国を領していた佐々成政に
          与えられ、成政は富山城を居城として大規模な改修を行った。
           天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いに際し、成政は織田信雄・徳川家康方に
          つき、羽柴秀吉と敵対した。翌十三年(1585)八月、秀吉は10万と号する兵力で越中を
          攻め、成政は富山城での籠城を選んだ。神通川を天然の濠とする富山城は容易には
          落ちず、その間に嵐が襲って秀吉陣営に大きな被害が出るなどしたが、衆寡敵せず
          数日後に開城・降伏した。成政は新川郡のみを安堵されたが、富山城は秀吉の命に
          より破却された。
           関ヶ原の戦い後の慶長十年(1605)、加賀・越中・能登の3国を領していた前田利長
          は、異母弟で養子の利常に家督を譲り、富山城を隠居城として取り立てた。城を改修し
          城下町を整備したものの、同十四年(1609)に建物の多くが焼失した。利長は高岡城
          を新たに築いて移り、富山城には城代として津田義忠を入れた。
           寛永十六年(1639)、利常は次男利次に越中国内8万石を含む10万石を分知した。
          富山城は領内に入っていなかったが、婦負郡百塚に新しく居城を築くつもりであった
          利次は、その間の寓居として富山城に在城した。しかし、財政難から新規築城は断念
          され、万治二年(1659)に加賀藩との領地交換によって富山城を得て居城と定めた。
          同四年から幕府の許可を得て城と城下町を整備し、以後13代を数えて富山藩は明治
          維新を迎えた。


       <手記>
           現在富山城址公園として整備されているのは、かつての本丸と西の丸の範囲で、
          両者の間の水堀は埋められています。富山市郷土博物館として利用されている鉄筋
          コンクリート製の模擬天守は、本丸の枡形虎口の石垣上に乗っていて、天守としては
          明らかに不自然な景観を呈しています。とはいえ、この建物は戦後復興天守の第1号
          なのだそうで、その意味で国の登録有形文化財にしていされるなど、戦後建築という
          観点から歴史的建造物として大きな意義をもっているようです。
           また、北東の虎口脇石垣には佐藤記念美術館が建っています。本来、城址公園と
          なっている範囲で石垣があったのは、古絵図によるとこの本丸南西虎口と同北東虎口
          の2か所のみだったようですが、現在は北東隅から南西隅までびっしりと石垣で囲まれ
          ています。その中途にある千歳御門は、もともとは本丸東方の千歳御殿にあったもの
          を移築したもので、富山城唯一の貴重な現存建造物だそうです。
           遊覧船の巡る堀川となっている城址公園裏手の松川は、当時の神通川本流でした。
          すなわち、富山城は神通川が大きく屈曲する外側の沖積地に位置する、後ろ堅固の
          城だったということになります。

           
 富山城模擬天守と本丸水堀
同上。 
 模擬天守を枡形内から。
模擬天守。 
 本丸北西虎口の石垣。
 本丸内部のようす。 
 旧神通川の松川。


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