高岡城(たかおか)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 前田利長
 遺構  : 石塁、土塁、堀、井戸
 交通  : 万葉線高岡軌道線末広町停留場徒歩10分


       <沿革>
           慶長十四年(1609)三月、加賀藩初代藩主前田利長が隠居城としていた富山城が、
          火災により焼失した。利長は魚津城に移った後、幕府から射水郡関野への新規築城の
          許可を得た。元キリシタン大名で前田家の客将となっていた高山右近が縄張りを担当
          したといわれる。そのほか小塚秀正らが資材調達を、神尾之直らが現地奉行を務めた。
           同年九月、利長はまだ未完成だった新城に入り、名を高岡城と改めた。 慶長十九年
          (1614)に利長が没すると、翌元和元年(1615)には一国一城令が発布され、高岡城は
          廃城となった。ただし、2代藩主前田利常には、加賀国小松に新しく隠居城を築くことが
          許された。また廃城となったものの、旧高岡城内には加賀藩の米倉や塩倉、火薬庫等
          が置かれ、高岡は商人・工人の街として発展した。


       <手記>
           庄川と小矢部川に挟まれた氾濫原のただ中にあります。地形的な要害性はそれほど
          感じられず、隠居城としての性格をよく示しているように思われます。
           高岡城は存続期間がとても短かったにもかかわらず、近世の平城のなかでもとりわけ
          残存状況の良好な城跡です。本丸を中心に5つの曲輪とそれを取り巻く水濠がほぼ完全
          な状態で残っています。
           基本的に土塁造りの城で、本丸と二の丸を結ぶ土橋にのみ石垣がみられます。売店と
          軽食店を兼ねた三の丸跡のビジターセンターには、総石垣造で5層の天守をもつ、それ
          はそれは見事な想像復元模型があるのですが、最盛期でもどの程度石垣が用いられて
          いたかは怪しいところです。少なくとも、天守については存在が確認されていません。
           高岡城の縄張りについては、高山右近の手によるものというのが通説となっていて、
          城内にも立派な右近の像が建てられています。ですが、これには疑問視する声も少なく
          ないようです。たしかに、馬出を巨大化させた曲輪を並べて本丸の周囲を固める縄張り
          は、名古屋城加納城といった徳川政権下の天下普請で見られる特徴です。秀吉期
          にすでに失脚していた右近が徳川のトレンドに倣う理由はなく、単純に加賀藩の重職に
          あった人物によるものと考えるのが妥当なように感じられます。

           
 本丸のようす。
本丸と二の丸の間の土橋の石垣。 
 本丸南東隅の水濠。
 奥の赤い橋は本丸へ渡る朝陽橋
三の丸跡の「民部の井戸」。 
 本丸南西隅の水濠。
 二の丸南辺の外濠。 
 高山右近像。


BACK