寺尾城(てらお) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 諏訪氏 | |
遺構 : 土塁、空堀 | |
交通 : JR京浜東北線等鶴見駅、京浜急行線生麦駅、 JR横浜線・東急東横線菊名駅等よりバス。 「宝蔵院前」・「東高前」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 諏訪氏の居城といわれる。寺尾諏訪氏は信濃の諏訪氏の一族ともいわれるが、 詳細は不明である。西寺尾村の白幡明神が、永享年間(1429〜41)に諏訪氏に よって勧請されたことが『新編武蔵国風土記稿』に記されていることから、このころ 既に寺尾城が築かれていたものと考えられている。 後北条氏の勢力が伸張してくると、諏訪氏はその配下となり、江戸衆に属した。 天文年間(1532〜55)以降の寺尾の領主として、諏訪三河守の名がみられる。 建功寺の過去帳によれば、三河守の後は平三郎、三河守、馬之丞と続いた。また、 『北条記』には北条早雲(伊勢宗瑞)から孫の氏康の代にかけての北条家臣として、 「諏訪右馬助」という人物が登場する。しかし、この右馬助と寺尾諏訪氏との関係は 不明である。 <手記> 寺尾城は、鶴見川から西に2kmほど入った丘陵地帯の一角、入江川流域の複雑 な谷戸地形の一端に築かれています。上から見ると三叉ブーメランのような形をして いて、北側のみ峰続きです。 ちょうどブーメランの重心あたり、上の地図の点で示した角に城址碑があります。 遺構としては土塁や空堀跡が散在しているということです。ただ、その多くは個人宅 の敷地内にあるため、自由に見て回ることはできないと思います。 城山の南側直下の谷間にある新しいマンションを通り抜けると、プレイロットと呼ば れる区画があり、そこに土塁と説明板があります(上の地図の太線のあたり)。この 土塁は長さ20mほどあるというのですが、縄張り上どのような役割を持っていたもの なのか、少々想像しがたい位置にあります。『日本城郭大系』では、その他の土塁 遺構についても図示していますが、これらをどうつなぎ合わせても今ひとつ城の輪郭 が見えてきません。 ちなみに、このプレイロットは随分と人の手が入っていないようで、蜘蛛の巣は張り 放題、枝葉は伸び放題で、プレイどころかベンチに座るのも困難です。 |
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寺尾城址碑。 | |
寺尾城南側谷間の土塁。 |