鶴岡城(つるおか)
  別称 : 鶴ヶ岡城、大宝寺城、大梵寺城
  分類 : 平城
 築城者 : 武藤長盛(中世大宝寺城)、最上義光(近世鶴ヶ岡城)
  遺構  : 曲輪、土塁、水濠
  交通  : JR鶴岡駅よりバス


      <沿革>
          鶴岡城の地には、中世武藤氏の居城大宝寺城があった。大宝寺城は、室町初期に武藤長盛に
         よって築かれたと伝わる。武藤氏は、鎌倉時代に出羽国大泉荘の地頭となった大泉氏を祖とする
         といわれる。大宝寺城築城後、武藤氏は城の名をとって大宝寺氏とも称した。
          戦国期、天文元年(1532)に一族の砂越氏維の攻撃によって大宝寺城は焼失し、武藤晴時は
         居城を北西の尾浦城に移した。晴時の死後、跡を継いだ従兄弟の義増は越後の上杉氏と結び、
         その子義氏のころに、武藤氏は再び庄内地方を掌握した。このとき大宝寺城は、尾浦城の支城と
         なっていた。
          義氏は織田氏とも誼を通じ、信長から「屋形」の称号を与えられていたが、本能寺の変後、家臣
         東禅寺義長・勝正兄弟の謀反により殺害された。義氏の弟義興は上杉景勝を頼り、上杉氏家臣
         本庄繁長の子義勝を養子に迎えて、旧領回復に乗り出した。対する東禅寺氏は最上氏と結び、
         庄内地方は上杉氏と最上氏の激しい勢力争いの場となった。この争いで義興は落命し、結果的
         に庄内は武藤義勝を擁する上杉氏の領地となった。上杉氏統治下の天正十八年(1590)、領内
         検地に反対して一揆が発生し、大宝寺城は一揆勢によって攻め落とされた。一揆の鎮圧後、城は
         直江兼続によって修築された。
          関ヶ原の戦いによって庄内3郡を加増された最上義光は、大宝寺城を庄内の拠点として改修し、
         城名を酒田の亀ヶ崎城と対をなす「鶴ヶ岡城」に改称した。
          元和八年(1622)に最上家がお家騒動で取り潰されると、譜代の酒井忠勝が13万8千石で入封
         し、庄内藩が成立した。忠勝は、藩の都城として本格的に城を改修し、鶴岡城が完成した。以後、
         庄内藩は一度の転封もなく、酒井家が12代を数えて明治維新を迎えた。


      <手記>
          現在、鶴岡城は本丸と二の丸の北半分が残されています。ただし、正直にいってこのレヴェルの
         近世城郭にしては、保存状況はあまり良いとは思えません。観光の主流も致道館に奪われていて、
         城の方は肩身の狭い感じがしています。
          見どころは、本丸西側の水濠と土塁です。他の部分は人の手が多分に加わっていて、旧状とは
         いささか異なってしまっています。



鶴岡城水濠と土塁


鶴岡城本丸渡櫓跡


BACK