内牧城(うちのまき)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 辺春盛道か
 遺構  : 堀
 交通  : JR豊肥本線内牧駅よりバス
       「内牧」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           天文年間(1532〜55)に、阿蘇家臣辺春丹波守盛道によって築かれたと伝わる。
           天正十三年(1585)に島津氏が阿蘇へ侵攻すると、内牧城は攻め落とされ、盛道は自害したとされる。
          同十五年(1587)に豊臣秀吉が九州を平定すると、肥後は佐々成政に与えられたが、翌十六年(1588)
          の肥後国人一揆により成政が処罰されると、阿蘇を含む肥後北半国は加藤清正に与えられた。清正は、
          家臣加藤可重を内牧城代とし、その後可重の娘婿の加藤重泰、次いで可重の子正方と続いた。慶長
          十七年(1612)、正方は江戸幕府の命により麦島城代に転じ、内牧城には加藤正直が入った。
           元和二年(1616)、一国一城令により、内牧城は廃城となった。加藤家が改易となり、細川家が肥後
          藩主家となると、内牧城跡に御茶屋が造営され、参勤交代時の宿所として利用された。

          
       <手記>
           内牧は阿蘇の北西に位置し、城跡というよりも温泉街として知られています。内牧城は温泉街の北端
          付近にあったとされ、本丸跡は阿蘇体育館となっています。背後に三日月湖状の堀が残っていますが、
          これは黒川の旧河道で、現在の川筋は2代肥後藩主加藤忠広のときに付け替えられたものだそうです。
           本丸の東に二の丸・三の丸と続いており、かつては二の丸の石垣が残っていたそうですが、現在では
          失われてしまったようです。したがって、堀のほかに城跡を示すものはありません。
           内牧温泉は、さすが阿蘇というか、湯量が豊富で町内には多くの入浴施設があります。阿蘇山からは
          少々離れていますが、阿蘇観光に組み入れて損はないと思います。

           
 内牧城址説明板。
本丸跡現況(阿蘇体育館)。 
 堀跡の旧黒川河道。 
同上。 


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