植田城(うえた)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 植田安信か
 遺構  : 不詳
 交通  : 琴電長尾線林道駅よりバス
      「西植田」バス停下車


       <沿革>
           こちらのサイトによれば、大字西植田中土居に植田城が存在したとする伝承がある。築城者は
          戸田城主植田美濃守安信とも、長宗我部氏ともいわれるが定かでない。長宗我部元親は、天正
          十年(1582)の本能寺の変で後ろ盾の織田信長を失った三好氏を攻め、同十二年(1584)までの
          間に戸田城を攻略した。安信築城説は、長宗我部氏に戸田城を落とされたことを受けてのことと
          しているため、いずれにせよ天正十年以降に築かれたことになる。
           翌天正十三年(1585)の羽柴(豊臣)秀吉による四国攻めの結果、讃岐は仙石秀久に与えられ、
          安信はその配下に組み入れられた。翌十四年、戸次川の戦いでの失態によって秀久が改易され
          ると、安信は剃髪して隠居したとされる。これにより領主としての植田氏も終焉したとみられており、
          このときまでには廃城となったものと推測される。
 

       <手記>
           中土居という小字から城館が存在した可能性は高いですが、出典が定かでないため、断言は
          できません。参考サイトさまによれば、現在の植田小学校西側の西植田保健所付近が本丸跡と
          されています。敷地の北辺は段差になっていて、クスノキの古木があります。土塁や堀の跡とも
          考えられますが、なんともいえません。
           小学校北隣のグランド脇には、植田ノ宮という小さなお社があります。ここは舌状地形で眺望
          もいくらか利き、多少なりとも要害性を求めるなら、こちらの方が城地にはふさわしいように思い
          ます。
           植田城というと、秀吉四国攻めの際に元親が敵軍を釘付けにするためのトラップとして築いた
          城として知られています。黒田官兵衛が罠を見抜いて、手こずるだけだからと無視したほどの城
          だったわけですが、この西植田の土居がそれに相当するとはとても思えません。ここに城館が
          存在したとして、それが植田城と呼ばれていた可能性は低いように感じます。

 本丸跡とされる保健所北辺の段差とクスノキの古木。
植田小学校。 
 植田ノ宮。


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