戸田城(とだ) | |
別称 : 岡の城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 植田氏 | |
遺構 : 削平地 | |
交通 : 琴電長尾線学園通り駅よりバス 「上宮尾」バス停下車徒歩20分 |
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<沿革> 土豪植田氏の居城である。植田氏は景行天皇の子神櫛皇子を祖とし、奈良時代の 明法博士讃岐永直の子孫とされる植田政景を初代とする。讃岐国きっての名族だが、 いつごろ戸田城を築いたのかは不明である。 戦国期には植田氏庶流の十河氏が東讃の最大勢力に成長したが、植田氏の動向は 定かでない。天正十年(1582)に本能寺の変で織田信長が斃れると、土佐の長宗我部 元親が阿波・讃岐に侵攻した。同十二年(1584)までに讃岐は平定され、戸田城も落城 し、当時の城主であった植田美濃守安信は元親に臣従した。その後の戸田城について は詳らかでない。一説には、安信は西方に城館を築いて移ったともいわれる。 他方で、翌天正十三年(1585)の羽柴(豊臣)秀吉の四国攻めに際して元親が築いた 植田城に比定する向きもある。この場合、元親の従弟の戸波親武が城将を務め、黒田 官兵衛ら讃岐方面軍をここで食い止める作戦であったことになる。 廃城時期は、早ければ長宗我部氏による制圧後、遅くとも讃岐国主となった仙石秀久 が除封された天正十四年(1586)までのことと推測される。 <手記> 現在の東西植田町は讃岐山脈と讃岐平野のちょうど境目あたりに位置し、小さな谷戸 が複雑に入り組んでいます。植田氏が讃岐有数の古族であり、周辺が早くから開発され ていたというのも納得できます。 戸田城は南からのびる丘陵先端の小さなピークに築かれています。北には戸田城に ちなむという城池があり、四方を山と池に囲まれた小盆地を形成しています。城跡の麓 にはその名も城公民館があり、ここに立派な城址碑があります。 城跡へは、公民館の脇から容易にたどり着くことができます。公民館の石碑の立派さ に比べると至って簡素な城で、本丸とその下の帯曲輪のほかには目立った造作は認め られません。城への入り口にあたる谷戸の脇に、切岸のような傾斜の畑がありますが、 遺構にからむものなのかは不明です。 戸田城の背後には円錐形に屹立する戸田山があり、戸田山城があります。戸田城を 岡の城と呼ぶのは、戸田山に詰の城があったからでしょう。とはいえ、両者を合わせて も、とても元親がトラップとして仕掛けた植田城に比定できる規模とは思えません。 |
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城公民館の戸田城址碑。 | |
本丸の城址碑。 | |
本丸のようす。 | |
1段下の帯曲輪。 | |
城への入り口のようす。 切岸跡か。 |
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戸田城付近から戸田山城を望む。 |