上桜城(うえざくら) | |
別称 : 植桜城、川島南城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 篠原長房か | |
遺構 : 曲輪跡、土塁、堀 | |
交通 : JR徳島線阿波川島駅徒歩40分 | |
<沿革> 三好氏重臣篠原長房によって築かれたとされる。篠原氏はもともと近江国野洲郡 篠原郷の住人で、長房の祖父の代に三好氏に仕えたとされる。『戦国三好氏と篠原 長房』によれば、史料上の長房の初出は天文八年(1539)で、とくに阿波を統治して いた三好長慶の弟三好実休(義賢、之虎)のもとで活躍していた。永禄五年(1562) の久米田の戦いで実休が戦死すると、その遺児長治の輔弼役として、阿波でさらに 権勢をふるった。上桜城については、長房が築いたものとしても、いつごろのことか は定かでない。また、南北朝時代に土豪の砦が築かれたのがはじまりとする伝承 もある。 長治が成長すると、長房は次第に疎んじられるようになったとみられている。元亀 四年(1573)六月、長治は長房討伐の兵を挙げ、手始めに長房と懇意であった赤沢 宗伝の板西城を不意打ちに攻め落とした。『三好記』によれば、長治の母小少将が 長房の弟篠原自遁と姦通し、これを長房が咎めたため、自遁によって讒言された のが原因とされる。 長房・長重父子はゲリラ戦に打って出たが、多勢に無勢で徐々に包囲網を狭め られ、ついに上桜城に追い詰められた。七月十六日、長房らは城に火を放って敵陣 に突入し、壮絶な討ち死にを遂げた(上桜城の戦い)。なお上桜城の戦いについて は翌天正二年(1574)のこととする説もある。 戦後、長房の遺領は武功をたてた川島惟忠に与えられ、惟忠は上桜城を廃して 山麓の吉野川河岸に川島城を築城した。 <手記> 上桜城は、吉野川南岸の山塊から少し突き出た一峰に築かれています。背後に 林道が通っていて、車2台分くらいの駐車スペースと説明板があり、ここからフラット に城跡に入れます。主城域付け根側の尾根を抜けるのですが、なぜか堀切がなく、 まもなくダイレクトに本丸裏手の切岸下に到達します。本丸には櫓台状の大土塁が あり、現在はそこに祠が祀られ、城址碑が建てられています。本丸の吉野川側は 樹木が整理されていて、眺望絶佳です。 尾根先側には数段の腰曲輪が続いていますが、全体的に堀などはなく、至って 単純な構造をしています。上桜城について、堅城と呼ぶ声もちらほら聞こえますが、 私にはとても権臣篠原長房の居城に相応しい規模には思えません。 ここまでの主城域は別名古城と呼ばれ、林道に囲まれた説明板南方には、新城 と呼ばれる別の遺構群があります。新城西側の林道脇から、うっすらと見える堀切 に取り付くことができます。この堀切はなかなか立派で、まさしく古城に対する新城 の遺構ということができるでしょう。堀切から付け根側に上がると小さな石祠があり、 不明瞭ながら曲輪形成されているように見えます。そのさらに奥には、もう1つ堀切 ないし堀底道と思われる人工地形が認められます。その先にはもう遺構らしきもの は見当たりません。この箇所だけでは城砦として成り立っている感じではないので、 おそらく新城の中心部は林道建設によって抉られたものと推測されます。 古城に新城を加えたところで、城の規模ははっきり言ってたかが知れています。 繰り返す通り、とてもルイス・フロイスが三好三人衆をもしのぐとまで記した長房の 居城に見合った城跡とは思えません。そこで個人的に気になるのは、定説では 上桜城の廃城後に築かれたとされる川島城です。川島城を築いた川島惟忠なる 人物については、旧長房領と思われる川島の地名を名字としていながら、出自が 定かではありません。また、上桜城周辺の地域を治めるなら、川島城の地の方が 利便性が格段に高いことは明瞭です。長房ほどの人物がここに目を付けない理由 が見当たりません。そこで単純な直感として、長房の居城はもともと川島城にあり、 上桜城は一応の詰城であった。長治に攻められた際に上桜城に追い詰められた ことから、後世に同城が長房の居城であるかのように伝わってしまったとする解釈 も、充分にあり得るように思います。 ちなみに、川島町は政党まで作ったアノ新興宗教の某総裁の出身地だそうで、 上桜城へ向かう道の途中には、彼の生誕館なる白亜の宮殿があります。 |
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川島城模擬天守から上桜城址を望む。 | |
城跡入口の説明板。 | |
本丸背後の切岸下。 | |
本丸櫓台状土塁とその脇の虎口。 | |
本丸と櫓台状土塁。 | |
本丸からの眺望。 中央の丘が川島城。 |
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櫓台状土塁の上から本丸を俯瞰する。 | |
本丸東面の虎口。 | |
尾根先の腰曲輪群を見下ろす。 | |
新城の堀切。 | |
同じく堀切を上から。 | |
堀切上の石祠のある曲輪跡。 | |
その奥の堀切状地形。 |