鵜ヶ崎城(うがさき) | |
別称 : 岩沼城、岩沼要害、武隈館 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 不詳 | |
遺構 : 曲輪跡、土塁 | |
交通 : JR東北本線岩沼駅徒歩5分 | |
<沿革> 古くは武隈館と呼ばれていたが、築城者や築城年代は明らかでない。10世紀末に、藤原実方 とともに奥州へ下向した源重之によって築かれたとする伝承もあるが、真偽は不明である。 その後、永禄年間(1558〜69)に伊達家臣泉田安芸守重光が城主となるまでの間については、 詳らかでない。天正十三年(1585)以降、石田将監興純、大木不休、遠藤兵部、屋代景頼、奥山 出羽守兼清と目まぐるしく城主が代わり、兼清以下奥山氏が3代続いた。仙台藩成立後は、一国 一城令のもとで岩沼要害と呼ばれたが、体裁は近世城郭そのものであった。 寛永十三年(1636)に古内主膳重広が入り、子の肥後重安の代まで統治した。重広は、伊達 政宗の叔父国分盛重の子で、政宗の従兄弟にあたる。 万治三年(1660)、仙台藩2代藩主伊達忠宗の三男宗良が、祖母愛姫の実家田村家を再興し、 3万石で岩沼藩を立藩した。寛文十一年(1671)に伊達騒動が起こると、宗良は首謀者とされた 叔父伊達兵部宗勝とともに藩主綱村を後見する立場にあったため、連座して一時幕府から閉門 を命ぜられた。翌年に赦されたが、宗良の子建顕の代の延宝九年(1681)、田村氏は岩沼から 一関へ移封となった。岩沼藩が存在した20余年の間は、岩沼城と呼ばれていた。 その後は、再び古内氏が領主となり、明治維新を迎えた。 <手記> 鵜ヶ崎城は、現在の岩沼駅周辺一帯にあったとされ、主郭近辺が鵜ヶ崎公園となっています。 東に奥州街道岩沼宿を抱える小高い丘の上にあり、古絵図によれば、主郭の丘を中心に水濠を めぐらした縄張りとなっていました。 現在、鵜ヶ崎公園の高台に碑が建てられています。この高台の隅には、櫓台のような土盛りも あります。また、周囲は削平地状の段築がいくつか見受けられます。 そのほかは、市街地化のため、遺構と呼べるようなものは判然としません。 |
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鵜ヶ崎城址(鵜ヶ崎公園)のようす。 | |
城址碑。 | |
櫓台?城址高台隅の土盛り。 | |
削平地跡?高台脇の公園段築。 |