勝山城(かつやま)
 別称  : 氏家城
 分類  : 平城
 築城者: 氏家公頼か
 遺構  : 曲輪、土塁、堀、虎口
 交通  : JR東北本線氏家駅徒歩20分


       <沿革>
           建久年間(1190〜99)に、氏家氏初代とされる氏家公頼によって、築かれたと伝え
          られる。公頼は一般的に宇都宮朝綱の子とされるが、橘氏や小山氏の出とする説も
          ある。また宇都宮氏出身説でも、直接分家したとする説と、すでに益子氏などと同じ
          紀党の氏家氏があり、その4代目の氏家公広の養子となったとする説があり、判然と
          しない。いずれにせよ、公頼はまず御前城を築き、それから勝山城へ移ったとされる
          が、確証はない。
           氏家氏は、南北朝時代に入って美濃国や東北へ移った一族が繁栄したが、下野に
          残った系統はまもなく氏家綱元の代に絶えたとされる。その後、観応の擾乱で活躍
          した宇都宮家重臣芳賀禅可の孫にあたる芳賀高清が、飛山城から移り住んで城主
          となったとされる。現地説明板によれば、高清以下勝山城主家は代々駿河守を称し
          たとみられ、芳賀駿河守家とも呼ぶべき分家を興していたものと思われる。
           戦国時代になると、しばしば那須氏の攻撃を受けたが、一度として落城することは
          なかったとされる。慶長二年(1597)、芳賀駿河守高景が城主のとき、宇都宮家は
          豊臣秀吉によって突如改易され、勝山城も廃城となった。


       <手記>
           勝山城は飛山城と並んで遺構が良好に残る、鬼怒川左岸の拠点城です。宇都宮
          氏の防衛拠点でありながら、両城とも川を背した背水の陣のような立地にあります
          が、これは鬼怒川右岸の河岸が河道からやや離れていることに起因するのかな、
          と勝手ながら推測されます。
           城跡は、ミュージアムや移築民家などもある公園として整備されており、車ならば
          駐車場も完備されています。とくに、本丸は四周の空堀とともにほぼ完存していて、
          東西2か所の虎口には、どちらも横矢がかかる工夫が施されています。史跡の保存
          には地元の篤志家が私財を投じたとあり、頭が下がるばかりです。
           往時は、本丸の周りを二の丸が囲い、その南側に三の丸が広がる構造だったよう
          です。二の丸については、今も本丸北側が二の丸北郭として区画されているようす
          が見てとれます。また、本丸南東には二の丸南辺の土塁も見受けられます。
           最終的な改修は、縄張りの技巧からみて、おそらく天正十八年(1590)の小田原の
          役以降と思われ、時代的に貴重なだけでなく、芳賀氏の宇都宮家中における地位
          の高さもうかがえます。

           
 本丸北辺の空堀。
櫓台状に土塁と堀が張り出している本丸東辺。 
 本丸南辺の堀と大手の復興木橋。
本丸西側の虎口。 
 本丸内部のようす。
河岸からの眺望。 
 二の丸北郭。
二の丸北辺下のようす。 
空堀になっているようにも見えますが、 
遺構かどうかは不明です。 
 二の丸北郭東端の堀と土塁。
二の丸南辺の土塁を望む。 


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