梅津城(うめづ) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 梅津氏か | |
遺構 : 堀跡 | |
交通 : 阪急京都線桂駅または地下鉄東西線太秦天神川駅 よりバス。「梅津石灘町」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 土豪梅津氏の居城とされる。梅津氏の出自は不明であるが、平安時代に遡る古くからの開発 領主とみられている。とくに、仁安四年(1169)に創建された長福寺の繁栄に大きく寄与し、その 歴史と歩みをともにしている。 暦応二/延元四年(1339)、梅津左衛門尉清景は月林道皎国師を招き、長福寺を天台宗から 臨済宗へと改めた。長福寺は天皇家の寄進を受け、勅願寺となりさらに繁栄したが、梅津氏は その後ぱったりと足跡が途絶えた。 『足利季世記』によれば、永禄四年(1561)七月に三好義興が「梅津」に着陣し、翌年三月まで 留まった。義興が在陣したのは、梅津城ないし城址であったものと推測されている。 山本正男「京都市内およびその近辺の中世城郭」(『京都大学人文科学研究所調査報告 第 53号』)によれば、『籾井(家)日記』の天正三年(1575)の桂川における合戦の記述において、 「梅津隼人」および「梅津砦」が登場するとある。『籾井(家)日記』は「青鬼」として知られる丹波 の武将籾井教業を中心とする、籾井氏子孫らの手による軍記物であるが、教業の存在は史料 からは確認できない。内容にも誤りが多いため、史料上の価値は低いものとみられている。もし 梅津隼人なる人物が実在するとすれば、梅津氏がこの時点までは存続していたことを示すもの といえる。 山本「中世城郭」では、『雍州府誌』に義興が長福寺に滞在したことを示す記述があることを、 梅津城(址)に関するものとして挙げているが、『雍州府誌』も江戸時代の著作であるため、その 内容については留保が必要と思われる。 <手記> 梅津大神宮社の裏手に有栖川が流れ、そのすぐ西側にある水路がかつての梅津城東辺の堀 であったとされています。有栖川に架かる橋は構口橋といい、周辺が城跡であることを偲ばせる 唯一のよすがといえます。かつては南辺にも堀跡があったようですが、現在では宅地化が進み、 よくわかりません。 梅津氏は、周辺の開発と同時に、桂川の水運を利用した丹波の材木輸送で財をなしたという ことですが、今ではその繁栄を推し測るのも難しいくなっています。 城跡南西の少し離れたところ(城跡と梅津小学校の中間あたり)に、「梅津左衛門尉舊跡」と かすかに読める小さな石碑があります。 |
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東辺の堀跡の水路。 | |
有栖川に架かる構口橋。 | |
梅津左衛門尉舊跡碑。 |