鰻山城(うなぎやま)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 戸奈良宗綱
 遺構  : 土塁、堀、虎口
 交通  : 東武佐野線田沼駅よりバス
       「木戸内」下車徒歩5分


       <沿革>
           佐野氏3代佐野実綱の子五郎宗綱が戸奈良に住して鰻山城を築き、戸奈良氏を
          称したとされる。宗綱は、宝治元年(1247)の宝治合戦で三浦方に属して討ち死に
          した佐野小五郎と同一人物とされる(『下野国誌』)。
           これにより戸奈良氏は断絶し、鰻山城も廃されたといわれる。


       <手記>
           田沼市街の北西、旗川のほとりに、文字通り鰻のように(?)ぬったりと横たわる
          鰻山城跡の丘があります。ゾウリムシ型の半独立丘ですが、傾斜はとても緩やか
          で要害性はあまり認められません。
           登城口は、西麓に南北2か所にあります。山頂、というより丘の最も高いところに
          土塁で囲まれた方形の主郭があり、西にさらに2段の削平地が続きます。曲輪群
          の南には東西方向に土塁で挟まれた空堀兼通路が横断しているのが特徴です。
          この堀より南側には造作が見られないことから、おそらく丘全体を城砦化すること
          ができなかったために、主城域とそれ以外の丘陵部を断絶する意図があるものと
          思われます。
           全体的に防衛というよりは居住を意識した造りで、開発領主の館といった雰囲気
          です。鎌倉時代の戸奈良氏の居館というのも頷けますが、他方で堀や虎口の構造
          からは、室町時代までは使われていたように感じられます。また、バス停の木戸口
          のほか、周辺には番場・本屋敷といった字が残っているということから、佐野氏の
          一族が戦国時代まで住していたとも考えられます。
           『日本城郭大系』によれば、鰻山城のすぐ西の鳥居戸城には天正年間(1573〜
          90)に戸奈良次郎大夫守綱という人物がいたとされています。とすれば、少なくとも
          戦国時代には戸奈良氏が存在し、鰻山城もその持ち城であった可能性も指摘でき
          るでしょう。


           
 鰻山城跡を旗川に架かる羽室橋から。
主郭の城址碑。 
 主郭の虎口。
同上。 
 主郭南の空堀兼通路。
同上。 
 主郭1段下の曲輪。
主郭1段下の曲輪の仕切り土塁。 
 主郭下から主郭の土塁を見上げる。
主郭2段下の曲輪。 
 主郭2段下の曲輪の虎口。


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