采女城(うねめ) | |
別称 : 北山城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 後藤基清か | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、虎口、土橋、井戸跡 | |
交通 : 四日市あすなろう鉄道内部線内部駅徒歩20分 | |
<沿革> 『古屋草紙』には、後藤兵衛基清が文治三年(1187)に築き、15代にわたって居城と したとある。『三国地誌』によると、基清は藤原(後藤)左衛門尉実基の子で、采女七郷 を領したとされる。現地の説明では、実基は河内の武士で、基清の子基秀が文応元年 (1260)に三重郡の地頭職を賜り、采女山に城を築いたとしている。 後藤采女正藤勝の代の永禄十一年(1568)、采女城は北伊勢へ侵攻した織田信長 の軍勢により攻め落とされたとされる。藤勝は城を枕に討ち死にし、その娘とみられる 千奈美姫や藤勝の妻なども、主郭の井戸に身を投げたと伝えられる。後藤氏の滅亡と ともに、采女城も廃城となったとみられている。 <手記> 采女城は、内部川と足見川の合流点に臨む峰上の城です。南麓の道路沿いに地元 保存会による石碑や説明板が設置されていて、あまり大きくなければ車1台分程度の 駐車スペースもあります。さらに、采女城跡保存会によるパンフレットも用意されていて、 至れり尽くせりといった感じです。 構造としては、一の郭〜三の郭が並ぶ頂部と、三方に伸びる尾根筋の曲輪群とから 成っています。南麓からの登城路は南側2本の尾根間の谷筋を登り、番所跡のような 削平地を経てそれぞれの尾根へと分かれます。 東側へ折れると、八の郭背後の堀切に至ります。八の郭は、部分的に土塁を具えた やや広めの削平地で、前方下にも堀切と土橋が設けられています。一方、西へ折れる と五の郭〜七の郭が階段状に続いています。六の郭以下は未整備のようで、六の郭 が高めの土塁でしっかり囲われた、他の郭と異なる様相をしている点までは確認でき ました。また五の郭も、前後に堀切が穿たれています。 五の郭の上が主郭で、件の悲哀伝説の古井戸や説明板などがあります。城内で最も 広い曲輪のようで、背部を中心に土塁もはっきり残っています。 一〜三の郭はお互いに空堀で断絶されているものの、高低差はほとんどありません。 このうち中間にあたる二の郭は、前後に空堀を有していて独立性が高く、また櫓台状の 土塁も見受けられます。そのため、あるいは主郭である一の郭に対する詰曲輪である 可能性も考えられるように思います。他方で、一の郭の二の郭側には土塁が設けられ ているのに対し、二の郭の一の郭側にはそれがないという点も看過できません。この あたりは、3曲輪合わせて相互補完的な関係にあったと考えたほうがよいのかもしれま せん。 采女城について、後藤氏滅亡後も使用されたという記録はありません。現存している 遺構は規模が大きく、かつ技巧にも富んでいます。後藤氏が滅んだ当時のままである とすれば、北勢の土豪たちの地力や技術力の高さを物語っているように感じました。 城内にはまだ未整備の部分もあるようですが、地元住民の篤志で行っている史跡の 保存整備活動としては、これ以上ないほど充実しているように思います。改めて、ここに 御礼を申し上げる次第です。 |
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登山口の城址碑。 | |
登山口のようす。 | |
谷筋の削平地。 | |
八の郭背後の堀切。 | |
八の郭のようす。 | |
八の郭の土塁。 | |
八の郭前方下の堀切と土橋。 | |
八の郭前方下の空堀。 | |
五の郭のようす。 | |
五の郭背後の堀切。 | |
五の郭前方の堀切。 | |
高土塁に囲まれた六の郭。 | |
一の郭の虎口。 | |
一の郭のようす。 中央左手の木柵は古井戸跡。 |
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主郭背後の土塁。 | |
主郭背後の空堀。 | |
二の郭のようす。 | |
二の郭の櫓台状土塁。 | |
二の郭背後の空堀。 | |
三の郭のようす。 | |
三の郭の土塁。 | |
三の郭背後の堀切と土橋。 | |
三の郭から派生する尾根筋の堀底道。 | |
四の郭のようす。 | |
横矢折れの付いた四の郭の土塁。 | |
四の郭前方下の堀切。 |