若林城(わかばやし) | |
別称 : 小泉城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 伊達政宗 | |
遺構 : 土塁、堀跡、虎口跡 | |
交通 : 市営地下鉄河原町駅下車徒歩10分または 市バス「古城2丁目」「南小泉3丁目」バス停等下車 |
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<沿革> 伊達政宗の隠居城(実際には死ぬまで隠居はしていないが)として知られているが、政宗の 築城前には国分氏の小泉城があったといわれる。若林城の北側からは、その頃のものと思わ れる屋敷跡が発掘されている。国分氏時代には、小泉周辺に複数の城館があったという説も あり、規模も合わせて詳細は明らかでない。天文年間(1532〜54)には結城七郎が居住して いたと伝わる。結城七郎(結城氏初代結城朝光とは別人)については、江戸時代以降の資料 に登場するもののいかなる人物であるか定かでなく、出てくる年代にもばらつきがある。一説 には、結城七郎は国分宗政を指すもいわれる。これは、国分氏の出自に平姓千葉氏流、藤姓 長沼氏流および藤姓結城氏流の3説があるためである(長沼氏と結城氏はともに小山氏庶流)。 16世紀後半ごろに、宗政の孫盛顕は、松森城を築いて小泉城から移ったといわれる。ただ、 盛顕の実在には疑問が呈されており、いつごろ国分氏が松森城へ移ったかは明らかでない。 慶長五年(1600)、政宗は青葉山に仙台城を築くが、天下泰平の世に山上の不便を厭い、 平地への居館の造営を計画した。幕府へは「屋敷」として届出て、寛永四年(1627)に許可が 下りた。城は翌年に完成し、同年十一月に政宗は若林城へと移った。 若林城下には、仙台城下とは別に家臣の屋敷町や城下町が建設され、町奉行も仙台とは別 に置かれた。これ以降政宗は、在国中ほとんど仙台城へは赴かず、もっぱら若林で過ごすよう になった。死病に臥せっていた政宗は、自分の死後城の周囲は堀一重を残してその他を田畑 とするよう命じた。 寛永十三年(1636)に政宗が江戸で没すると、2代藩主忠宗は、若林城と城下町を廃した。 城内の建物は、寛永十六年(1639)に仙台城二の丸へ移築された。城跡は「古城」と呼ばれ たが、その後跡地には藩の薬草園が設けられた。 <手記> 城跡は現在宮城刑務所となっており、城内を歩き回ることはできません。しかし、刑務所の 周囲には、ほぼ当時のままと思われる土塁や堀跡がぐるりと巡っており、一周するだけでも 十分見ごたえがあります。 若林城は、広瀬川の自然沖積地の一角に築かれた平城で、西に奥州街道と仙台城下町が 広がっています。特に、若林城が大手を向ける広瀬橋や川原町は、仙台の城下町の入り口に 当たります。このため居住用の別邸とはいっても、仙台の防備を十分に意識した選地であった ことがわかります。 |
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宮城刑務所北側の石碑と案内板。 | |
堀跡と土塁。 | |
虎口跡。 |