松森城(まつもり)
 別称  : 鶴ヶ城
 分類  : 山城
 築城者: 国分盛顕ないし盛氏か
 遺構  : 郭跡、土塁
 交通  : 市営地下鉄八乙女駅または泉中央駅よりバス
      「市民センター前」バス停等下車10分


       <沿革>
           在地領主国分氏末期の居城である。天文の乱のさなかの天文十一年(1542)に、留守景宗が松森城
          を攻めたとする記述が『留守家文書』にみられる。このころには、既に簡単な城砦が営まれていたと思わ
          れる。一般的には、国分盛顕が16世紀後半ごろに松森城を築き、小泉城から移ったといわれる。しかし、
          盛顕の実在には疑問が呈されており、盛顕が実在しないとすれば、盛顕の前代の盛氏が築いたものと
          考えられる。
           国分氏には後に伊達輝宗の弟政重が送り込まれ、政重は、時期は不明だが盛重と改名して国分氏
          の家督を継いだ。盛重の家督継承には家中で反発が強かったようで、盛重と家老の堀江氏が対立した
          際には、甥の伊達政宗が堀江氏の側に立って介入する構えをみせた。このとき、盛重は政宗に謝罪し、
          この事件以降、国分氏は伊達氏の家臣と見做されるようになった。実際、小田原の役後の奥州仕置で、
          兄の政景や昭光が入嗣した留守氏や石川氏が改易されたのに対し、国分氏はそもそも伊達家臣である
          として所領は没収されなかった。
           慶長元年(1596)、盛重は伊達家を出奔して佐竹家へ身を寄せた。政宗の不興を買ったためともいわれ
          るが、出奔の理由は明らかでない。松森城も、このとき廃されたものと思われる。

          

       <手記>
           松森城は、七北田川に近い独立丘上にあります。鶴ヶ城の別称は、山の形が鶴翼の陣形に似ている
          ことにちなんでいます。東方わずか2kmほどのところには、長年の宿敵であった留守氏の居城岩切城
          あります。
           現在、本丸と東側の二の丸を中心に公園整備がなされています。とくに本丸には多数の桜が植えられ、
          ちょうど季節遅れの見ごろであったため、思わぬ花見ができました。岩切城や長命館も、同じく桜の公園
          として整備されており、春には城跡めぐりと花見行脚がともに楽しめます。
           城跡としては、本丸と二の丸の平場の他、あちらこちらに堀跡と思われる箇所が散見されます。二の丸
          の位置については、本丸の東側にあったとするものと西側にあったとするものの2説あるようです。

           
 松森城址遠望(中央右の桜色のあたり)。
本丸のようすと城址碑。 
 二の丸(ないし出丸)方面を望む。
 左後方の峰は岩切城址。右手後方に仙台湾が見えます。


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