鷲城(わし)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 小山氏
 遺構  : 土塁、堀、虎口
 交通  : JR小山駅よりバス
       「外城工業団地」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           天授六/康暦二年(1380)に勃発した小山義政の乱に際して、義政は祇園城
          鷲城、岩壺城、新々城、宿城の5城を拠点としたとされる。義政はこのうち鷲城を
          中心に抗戦したが、翌弘和元/永徳元年(1381)十二月八日に祇園城へ退いて
          降伏した。このことから、鷲城を義政までの小山氏の居城とする見方もある。
           弘和二/永徳二年(1382)に義政は自害したが、元中三年/至徳三年(1386)
          と応永三年(1396)の2度にわたり、義政の嫡子若犬丸が祇園城を占領して抵抗
          を図ったが、敗れて小山氏の嫡流は滅亡した。若犬丸の決起の際に鷲城が使用
          されたかは定かでない。
           小山氏は、一族の結城基光の次男泰朝によって再興された。泰朝は祇園城に
          入り、以後同城が小山氏の居城として定着したとされる。鷲城も祇園城の支城と
          して取り立てられたものと考えられるが、詳細は不明である。


       <手記>
           城名のもととなっている鷲神社境内一帯が鷲城跡です。思川に突き出た舌状
          のような地形を利用し、中城と外城の大きく2郭から成っています。境内の大半は
          畑と林となっていますが、その中に仕切り土塁の痕跡と思われる段差が認められ
          ます。
           境内の先から河川敷の小山総合公園へ下りる道があるのですが、これが搦手
          と思われ、虎口と張り出し部の土塁が残っています。小山総合公園と合わせて、
          鷲城跡は地元民の格好のウォーキングコースになっているようで、意外と人通り
          は少なくありません(笑)。
           下りきったところにもう1つ虎口があるのですが、その脇から最大の遺構である
          堀と土塁が延びています。高低差があるうえに、弧を描いてかなり奥まで残って
          いるようなのですが、堀底が泥湿地と化していて進入は途中で泣く泣く断念しま
          した。反対側からの接近も試みたのですが、こちらは藪に埋もれてやはり踏査は
          困難でした。
           全体的に、鷲城は広い曲輪に稚拙な縄張りをもち、つとめて鎌倉末から南北朝
          時代的な印象を受けます。少なくとも、祇園城のように後北条氏以下による改修
          は受けていないものと思われます。

           
 城址碑。
城址碑近くの虎口跡。 
 中城のようす。
 奥の森のなかに土塁が埋もれています。
中城の仕切り状土塁。 
 鷲神社。
鷲神社本殿近くの虎口。搦手か。 
 虎口脇の張り出し部土塁。
麓の虎口。 
 堀と土塁。


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