祇園城(ぎおん)
 別称  : 小山城
 分類  : 平山城
 築城者: 小山政光か
 遺構  : 曲輪、土塁、堀、虎口
 交通  : JR小山駅徒歩10分


       <沿革>
           祇園城の築城時期については定かでない。もっとも古いとする説では、小山氏
          初代小山政光が久安四年(1148)に築いたとする伝承がある。ただし、祇園城の
          南方には居館造の小山御館があり、少なくとも入植初期の小山氏の館はこちら
          にあったとするのが妥当と考えられる。    
           南北朝時代の天授六/康暦二年(1380)に勃発した小山義政の乱に際して、
          義政が拠点とした5つの城のなかに祇園城の名がある。したがって、遅くともこの
          ときまでには築かれていたことになる。義政は5城のうち鷲城をメインに、翌弘和
          元年/永徳元年(1381)五月以降鎌倉公方勢への抵抗を続けたが、十二月八日
          に祇園城へ退いて降伏した。
           翌弘和二/永徳二年(1382)、義政と嫡子犬若丸は、祇園城を焼いて粕尾に
          城を築き、再び鎌倉府に反旗を翻した。鎌倉公方足利氏満の討伐を受けた義政
          はついに自刃し、犬若丸は逃亡した。
           元中三年/至徳三年(1386)五月、小山犬若丸が旧家臣を糾合して祇園城を
          占拠した。犬若丸らは鎌倉府の拠点古河へ向けて進軍したが、討伐軍に敗れ、
          同年七月に祇園城は陥落した。
           応永三年(1396)二月、犬若丸は再度祇園城を占領したが、同月中には討伐
          を受けて城を捨て、奥州へ落ち延びた。しかしついに追い詰められ、翌四年に
          会津で自害した。これにより、名族小山氏の嫡流は滅びた。
           小山氏の名跡存続と下野の国情安定のため、同族で新たに下野守護に任じ
          られた結城基光の次男泰朝が小山氏を継承した。祇園城が小山氏の居城と
          なるのは、泰朝以降のことともいわれる。
           永正九年(1512)、小山成長は永正の乱で嫡子足利高基に古河城を逐われ
          た古河公方足利政氏を祇園城に迎え入れた。しかし、政氏の子政長が高基側
          に転じたため、政氏は同十三年(1516)に祇園城からの退去を余儀なくされた。
           戦国時代後期になると、小山氏は他の北関東諸将の例に漏れず、後北条氏
          と越後上杉氏との間で揺れ動くことになる。永禄六年(1563)には上杉謙信が
          祇園城へ攻め寄せ、小山秀綱は降伏した。天正三年(1575)には北条氏照に
          攻められ、一度は撃退するものの、秀綱は城を開いて佐竹義重のもとへ落ち
          延びた。
           北条氏は重臣近藤綱秀を城代に入れ、下野国攻略の拠点として祇園城を
          改修した。天正十年(1582)には、北条氏の麾下に入るという条件で、秀綱が
          小山城主に復帰している。
           天正十八年(1590)の小田原の役で小山氏は改易され、所領は実弟の結城
          晴朝に与えられた。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに際し、有名な小山評定が祇園城周辺で
          開かれたとされるが、このとき城自体が現役であったかは定かでない。翌四年
          (1601)に晴朝の養子で徳川家康の次男の結城秀康は越前北ノ庄67万石へ
          加増・転封となった。少なくともこの際に、祇園城は一度廃されたものと推測
          される。
           慶長十三年(1608)、本多正純が父正信とは別個に小山藩3万3千石に封じ
          られた。祇園城が復興されて藩府となったと推測されるが、実態については
          定かでない。元和五年(1619)、正純は宇都宮15万5千石に加増・転封となり、
          小山領は古河藩に吸収された。これにより、祇園城は完全に廃城となった。


       <手記>
           祇園城は思川の河岸段丘上にあり、同じ河岸に並ぶ長福寺城や鷲城ととも
          に広義の小山城を形成していると言われています。ただし、単に「小山城」と
          言った場合、この祇園城単体を指すのが一般的なようです。
           祇園城というのは、城内に祇園社があったことにちなむもので、同社は須賀
          神社として今も城内に鎮座しています。城域は城址公園となっていて、曲輪間
          の深々として豪壮な空堀が良好に残っています。
           南端の本丸以下、北に曲輪を連ねた典型的な連郭式の城なのですが、それ
          ぞれの曲輪の名称については定まっていないようです。その理由はおそらく、
          本丸に入る前に通過しなければならない広めの角馬出しを、二の丸に含める
          かどうかというところにあるようです。この角馬出しは、本丸の北の広い曲輪の
          隅に¬字型に堀を掘って設けられているもので、おそらく後北条氏の改修時に
          作られたものと推測されます。
           これを二の丸と呼ぶか否かは感覚の問題に過ぎませんが、個人的には無理
          があるかなと考えています。
           面白いのは、現在の祇園城は北向きですが、学研『戦国の城 (上)』などに
          よると、もともとは南向きに曲輪が広がっていたとされる点です。仮想敵の方角
          が南から北に変わったのは北条氏時代でしょうから、同氏の改修時にがっつり
          変更されたのだろうと推測されます。

           
 本丸のようす。
本丸の土塁。 
 本丸の空堀。
角馬出しのようす。 
 角馬出しの空堀。
二の丸の土塁。 
 二の丸の虎口跡。
二の丸の堀。沢谷戸を利用したものか。 
 三の丸の空堀。
三の丸のようす。 
 三の丸の北の曲輪の空堀。
同上。 


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