和徳城(わっとく) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 安倍某か | |
遺構 : 不詳 | |
交通 : JR奥羽本線弘前駅または弘南鉄道中央弘前駅 より徒歩15分 |
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<沿革> 藤崎城主安東氏の庶流である安倍氏によって、弘和年間(1381〜83)に築かれたとされる。 文安二年(1445)に南部氏の侵攻により落城し、小山内氏(鷹ヶ岡城主か)が城主となった。 天文十年(1541)、和徳城主小山内満春は攻め寄せた大浦政信の軍勢を迎え撃ち、三味線 河原の戦いで戦死した。しかし、和徳城は落ちなかったようで、まもなく満春の子永春によって 政信は討ち取られている。その後小山内氏は和徳氏を名乗ったとみられる。 元亀二年(1571)、和徳城は大浦為信の攻撃を受け、城主和徳讃岐守(永春の子とされる) 以下全城兵が討死したという。この攻城戦に際して食された汁物が、現在の津軽名物けの汁 の起源といわれている(ただし、攻城側か守城側かは不詳)。 城は大浦氏重臣森岡信元に与えられたが、大浦氏の勢力拡大とともに自然廃城となったもの と思われる。 <手記> 城の正確な所在は詳らかになっていませんが、和徳稲荷神社周辺が比定地として有力視され ています。神社境内には、けの汁発祥の地という案内はありましたが、とくに城跡を示すような ものはありませんでした。ただ、地元では和徳城址として認識されているようです。 本殿の裏手、土淵川沿いに土盛りになっている部分がありますが、ひょっとすると当時の遺構 なのかも知れません。 |
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城跡とされる和徳稲荷神社。 | |
神社裏手の土盛り。 |