ウルヴジー城
( Wolvesey Castle )
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: ヘンリー・オブ・ブロイス
 交通  : ウィンチェスター駅徒歩20分
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
           ウィンチェスター司教ヘンリー・オブ・ブロイスによって、1130〜40年の間に築かれたと
          される。ヘンリーは、イングランド王ウィリアム1世(征服王)の娘マデラの子で、叔父の
          イングランド王ヘンリー1世が1135年に死去すると、実兄スティーブンの王位継承を支持
          した。他方、ヘンリー1世は唯一の嫡子であるマティルダ(愛称「モード」)を生前に後継
          者として嫁ぎ先の神聖ローマ帝国から呼び戻しており、両者の間で緊張状態となった。
          ウルヴジー城の築城は、こうした情勢を背景とするものと推測される。
           1141年、イングランドに上陸したマティルダ軍は、リンカーンの戦いでスティーブンを
          捕虜とする大勝利を収めた。勢いに乗ったマティルダ軍は、ウィンチェスターの近郊で
          スティーブンの妻マティルド(英語ではこちらも「マティルダ」であるが、混同を避けるため
          一般的に仏名のマティルドと呼ばれる)の軍と戦った。ヘンリーは、それまで教会権への
          干渉を巡って兄スティーブンとはしばしば対立していたが、このときはマティルドを援けて
          いる。マティルダ軍は、中心人物であるグローセスター伯ロバートが捕えられるほどの
          大敗を喫し(「ウィンチェスター崩れ(Rout of Winchester)」)、戦後にスティーブンとの
          捕虜交換が行われた。この戦いで、ウルヴジー城に籠城したヘンリー軍は市街に放火
          して抵抗し、マティルド軍到着までの時間稼ぎをしたとされる。この内戦は、1153年に
          スティーブンの終身王位と引き換えに、マティルダの長男アンリ(後のヘンリー2世)を
          後継者とする和議が結ばれるまで続いた。
           1554年、イングランド女王メアリー1世とスペイン王フェリペ2世の婚礼の朝食が、城の
          イースト・ホールで執り行われた。
           イングランド内戦さなかの1646年、ウルヴジー城は議会派によって破壊された。以後、
          一部が司教の館として再建されたほかは、廃墟のままで今日に至っている。


       <手記>
           ウルヴジー城は、ウィンチェスター旧市街の南東隅、大聖堂の西隣に位置しています。
          現在は完全な廃墟となっていて、一般に公開されています。もともと旧市街南西端の丘
          にはウィンチェスター城があるのですが、ウルヴジー城は国王の城とは別個に司教が
          建てた館城というのが実情のようです。
           城はイッチン川と大聖堂に挟まれていて、これをもって要害としているようにみえます。
          道を挟んだ南側向かいには、イギリスでもっとも歴史あるパブリックスクールであるウィン
          チェスター・カレッジがあります。
           今では、残念ながら廃墟からそのような司教の繁栄をうかがいしることは難しく、城内
          の建物の大きさや説明板の内容から推測するよりほかありません。

  
 ウルヴジー城の城壁。市壁でもある。
ウルヴジー城北西隅の館跡付近。 
 北東隅付近のようす。
イースト・ホール周辺のようす。 


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