柳生古城(やぎゅうふるしろ)
 別称  : 小柳生城
 分類  : 山城
 築城者: 柳生氏
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : JR奈良駅または近鉄奈良駅からバスに
      乗り、「柳生」下車徒歩5分


       <沿革>
           柳生氏は春日大社領小柳生荘の荘官が土着したものといわれ、平安時代後期に菅原姓
          の大膳永家がその任に就いたことにはじまるとされる。ただし、永家以後の荘官家について
          は定かでない。一般には、元徳三年(1331)に後醍醐天皇を奉じて笠置山で幕府軍を相手
          に奮戦した、播磨守永珍を初代とする。笠置山での戦いに敗れた永珍は所領を失ったが、
          元弘三年(1333)に鎌倉幕府が倒れると、後醍醐天皇から改めて小柳生の地を与えられ、
          柳生氏を称したとされる(『玉栄拾遺』)。このとき、柳生領は先に弟の中坊源専が拝領して
          いたが、源専は兄に領地を譲ったともいわれる。源専は、江戸時代初期に筒井家の重臣や
          幕府の奈良奉行を務めた中坊秀祐の祖先とされるが、永珍・源専ともに実在は裏付けられ
          ていない。
           柳生氏がいつごろ古城山に城を築いたのかは不明である。古城という呼称と地名から、
          一般には南の柳生城に先立って築城されたものと考えられている。永珍がこの山に拠って
          笠置山の兵站確保に努めたとする伝承もあるが、確証はない。廃城時期も不明だが、遺構
          の技巧性から鑑みて、柳生城と併存して命運を共にしていたものと推測される。


       <手記>
           柳生古城は、柳生バス停の北東に位置しています。柳生交差点から少し東へ行ったところ
          に登城口があります。
           主郭の前後に2条ずつ堀を設け、小さいながらもコンパクトにまとまっており、古城とはいい
          つつも柳生氏の詰城として、上述の通り柳生城と最後まで併存していたと考えられます。とく
          に南端の堀はクランク状に折れており、そこまで技巧的とまではいえませんが、戦国時代末
          の改修によるものでしょう。
           主郭背部の土塁上には剣塚がありますが、これは満州事変のときに、皇軍の武運長久を
          祈ったものだそうです。したがって、その下の土塁が遺構なのかどうかは判然としません。
           主郭背後2条目の堀切の先には、すぐ次のピークが迫っています。こちらにも何かしら城の
          施設があるのではないかと少し上ってみましたが、どうも自然地形のようでした。

 柳生古城跡を望む。
最前段の削平地。 
 前方2条目の堀。
2条目の堀がクランクに折れている部分。 
 クランクの先のようす。
クランク状の空堀背後の曲輪。 
 前方1条目の堀切。
主郭下の腰曲輪。 
 主郭のようす。
 右手奥は剣塚。
後方1条目の堀切。 
 2条目の堀切。


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