柳生城(やぎゅう) | |
別称 : 小柳生城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 柳生氏 | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁 | |
交通 : JR奈良駅または近鉄奈良駅からバスに 乗り、「柳生」下車徒歩15分 |
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<沿革> 柳生氏は春日大社領小柳生荘の荘官が土着したものといわれ、平安時代後期に菅原姓 の大膳永家がその任に就いたことにはじまるとされる。ただし、永家以後の荘官家について は定かでない。一般には、元徳三年(1331)に後醍醐天皇を奉じて笠置山で幕府軍を相手 に奮戦した、播磨守永珍を初代とする。笠置山での戦いに敗れた永珍は所領を失ったが、 元弘三年(1333)に鎌倉幕府が倒れると、後醍醐天皇から改めて小柳生の地を与えられ、 柳生氏を称したとされる(『玉栄拾遺』)。このとき、柳生領は先に弟の中坊源専が拝領して いたが、源専は兄に領地を譲ったともいわれる。源専は、江戸時代初期に筒井家の重臣や 幕府の奈良奉行を務めた中坊秀祐の祖先とされるが、永珍・源専ともに実在は裏付けられ ていない。 柳生氏がいつごろ柳生城を築いたのかは不明である。北には柳生古城があり、一般には その呼称から、古城の後に新しく設けられたものと考えられている。 16世紀前半の当主柳生家厳は、大和国に勢力を広げた畠山氏重臣の木沢長政に従って いたが、その長政が天文十一年(1542)に討ち死にすると、筒井順昭が木沢氏与党の討伐 に乗り出した。同十三年(1544)、順昭は1万と賞する軍勢で攻め寄せ、家厳らは柳生城で 3日間にわたり防戦したが、ついに降伏した。 家厳の子宗厳(石舟斎)は、三好氏重臣松永久秀が大和へ進出するとこれに従属した。 元亀二年(1571)、久秀は順昭の順慶に辰市城の戦いで大敗し、宗厳も息子(柳生息)を 失った(『多聞院日記』)。 柳生氏はその後も松永家臣として留まったとみられるが、久秀は天正五年(1577)に織田 信長に攻め滅ぼされ、その後の動静については諸説あり判然としない。早ければこの時点 で、遅くとも同十三年(1585)に筒井家が伊賀へ転封となることまでには、没落していたもの とみられている。柳生城も、柳生宗厳の落去とともに廃城となったと推測される。 <手記> 柳生城は打滝川右岸の峰に築かれた山城で、対岸の河岸上には、江戸時代に柳生藩の 柳生陣屋が建造されました。中腹には柳生家菩提寺の芳徳寺があり、その参道途中から 城山に入る道が付いています。山麓には柳生の里の市営駐車場があるのですが、周辺の 道路は路駐できるほど幅が広いにもかかわらず、1回600円とあまりに強気の価格設定で 驚かされました。 山道を登ると、南端の堀切に出ます。その上には、水道施設が建設された腰曲輪があり、 主郭の下にも腰曲輪が付属しています。本丸は広く削平されていますが、腰曲輪側の造作 が甘くなっており、後世に手を加えられた可能性も考えられるでしょう。 いったん水道施設の下に戻ると、そこから城山の中腹をぐるっと1周して、また南端の堀切 に帰ってくることができます。途中、踏み跡程度で道が分かりにくい箇所もありますが、迷う ことはないでしょう。 本丸の西尾根には腰曲輪が、北西尾根には堀切が、北東尾根には2条の堀切とその間の 曲輪が、そして南東尾根には土橋状地形を伴う堀切が認められます。とくに北東の堀切は 2条とも規模が大きく、見応えがあります。南東の堀の先には物見岩のような巨石が立って いますが、曲輪として使われていたかは定かでありません。 北西中腹の芳徳寺にも土塁が見られるということで、境内に居館が営まれていた可能性 も指摘されています。ただ、見学には拝観料が必要で、駐車場代を取られたうえでさらなる 出費は手痛すぎるため断念しました。 |
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柳生城跡を望む。 | |
登城口。 | |
南側の堀切。 | |
同上。 | |
水道施設のある腰曲輪。 | |
腰曲輪の下。虎口跡か。 | |
本丸に付属する腰曲輪。 | |
本丸のようす。 | |
西尾根の腰曲輪。 | |
北西尾根の堀切。 | |
北東尾根の堀切。 | |
北東尾根の曲輪と土塁。 | |
北東尾根の曲輪から堀切越しに本丸を望む。 | |
北東尾根2条目の堀切。 | |
南東尾根の堀切。 | |
南東尾根の堀切の土橋状地形。 | |
南東尾根のピークのようす。 | |
芳徳寺。 | |
芳徳寺前の城址碑。 | |
芳徳寺前から城山を望む。 |