柳生陣屋(やぎゅう)
 別称  : 柳生藩陣屋、正木坂陣屋
 分類  : 平山城
 築城者: 柳生宗矩
 遺構  : 削平地
 交通  : JR奈良駅または近鉄奈良駅からバスに
      乗り、「柳生」下車徒歩7分


       <沿革>
           筒井氏の伊賀転封時までに柳生の所領を失っていた柳生宗厳(石舟斎)の子宗矩は、
          徳川家康に出仕し、後に徳川秀忠・家光と将軍2代にわたる兵法指南役となった。さらに
          惣目付(大目付)に就任した宗矩は、寛永十三年(1636)に加増を受けて計1万石の大名
          に列し、父祖伝来の柳生庄に柳生藩を立藩した。柳生陣屋はそれから3年をかけて建造
          されたとされる。
           正保三年(1646)に宗矩が没すると、遺領は長男三厳と三男宗冬で分割され、双方とも
          石高1万石を下回ったため、柳生藩は一時消滅した。しかし、慶安三年(1650)に三厳が
          急死すると、宗冬は自身の所領を返還したうえで兄の遺領を継いだ。明暦二年(1656)、
          将軍家綱の兵法指南役を拝命すると、宗冬は寛文八年(1668)に加増を受けて計1万石
          を回復し、柳生藩を再興した。この間、柳生陣屋は三厳および宗冬の旗本領役所として
          存続していたと推測される。
           8代俊則のときの延享四年(1747)、柳生藩陣屋は火災により全焼した。しかし、歴代の
          当主は将軍の剣術指南役として江戸に定住していたため、大規模な再建などはされず、
          仮建築のままで明治維新を迎えたとされる。


       <手記>
           柳生陣屋は、打滝川沿いにせり出した舌状の河岸上に位置しています。今は史跡公園
          として整備されており、屋敷割の地表復元とみられる基壇が設けられていますが、説明が
          ないので詳しい部分までは分かりません。上述のとおり、江戸中期以降は領地の統治が
          できていればよいという程度の仮建築だったとされるため、とりたてて遺構らしき造作は
          見られません。
           川向うには、柳生氏の詰城だったとされる柳生城があり、陣屋は平時の館跡に造営され
          たとする向きもあります。ただし、柳生城中腹の芳徳寺も曲輪跡と考えられており、こちら
          が居館跡である可能性もあることから、はっきりとしたことは言えません。

 川向かいから陣屋跡を望む。
陣屋跡説明板。 
 陣屋跡のようす。
同上。 
 同上。


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