山田城山(やまた) | |
別称 : 鎌田氏館 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 鎌田正清か | |
遺構 : 削平地跡か | |
交通 : 横浜市営地下鉄グリーンライン東山田駅徒歩10分 | |
<沿革> 『新編武蔵国風土記稿』の山田村の項に、「或は鎌田兵衛正清が居住せし処なりといへと 覚束なし」とある。中原街道道場坂下の鎌田堂は、背後の丘に正清の館があったことから、 その名が付けられたと伝えられている。 正清(政清)は平安時代末期の武士で、藤原秀郷の後裔を称していた。正清の母は源義朝 の乳母を務め、自身も義朝に仕えたとされる。平治元年(1160)の平治の乱で義朝ら源氏が 平氏に敗れると、正清は義朝に従って落ち延びたが、尾張国の正清の義父長田忠致の館で 騙し討ちに遭い、義朝ともども殺害された。『吾妻鏡』によれば、義朝の子頼朝によって正清の 一人娘が名跡を継ぐことを許されたとされるが、その後の鎌田氏について詳細は不明である。 永禄二年(1559)に成立した『小田原衆所領役帳』には、都筑郡山田郷62貫文の領主として 曾禰外記の名が記されている。戦国時代には小机衆とされる曾禰氏の城が営まれていたとも 考えられるが、確証はない。 <手記> 「山田城山」と目される比定地は、管見のところ3ヶ所あります。『記稿』にある山田村東方の 丘には、現在その名も「コンフォール城山の丘」というURの集合住宅があり、城山の名を残す ほとんど唯一のものとなっています。ただ、この丘は住宅建設により改変されているとはいえ、 城館を築くのには不向きと思われます。丘のどこかにあったとするなら、住宅の南東に延びる 細尾根(上の地図の真ん中の緑丸付近)の方が適地といえるでしょう。この尾根は、眼下に 旧中原街道が迂回するように走っていて、平安末期の武士の館や物見台には都合が良いと 思われます。付け根付近からスライドする形で尾根の内部を歩けますが、竹藪や畑になって いて遺構らしきものは見受けられません。また、先端には送電線鉄塔が立っていて、それに 伴うものかかなり広い幅で地面がえぐられています。 2つ目の比定地は、上述の鎌田堂背後の丘です。堂前の坂は、現在は道中坂と呼ばれて います。お堂脇から獣道が通じていたので登ってみましたが、2、3段に削平されているような ようすはみられるものの、城館遺構であるかは判断できません。平安末という時代を考えると、 この丘の上に居館が置かれていたとは考えにくく、館は麓のお堂付近にあり、丘には物見が 設けられていたとするのが妥当でしょう。 3つ目の比定地は、前2ヶ所から谷を隔てた南西に鎮座する山田神社の丘です。この神社の 麓には「堀の内」の字が残り、今もバス停にその名を留めています。この丘の東と北の斜面は かなりの急崖になっていて、あるいは人工の切岸ではないかと疑うこともできます。ただし、 表参道である南側斜面は恐ろしく緩やかな尾根が長く続いていて、こちらは要害性が著しく 乏しいといえます。したがって、堀の内の字名に城館の存在を感じるほかにありません。 ちなみに、現在の山田は濁らず「やまた」と読みます。 |
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旧中原街道から城山東方尾根の比定地を望む。 | |
尾根先端付近のようす。 中央の凹部は鉄塔建設によるものか。 |
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同上。 | |
鎌田堂背後の丘を望む。 | |
鎌田堂。 | |
丘の上のようす。 | |
削平地跡か。 | |
山田神社の丘を望む。 | |
山田神社。 | |
神社の表参道。 |