八乙女館(やおとめ)
 別称  : 八乙女城、実沢城、山ノ内西館
 分類  : 平山城
 築城者: 八乙女淡路盛昌
 遺構  : 空堀、土橋、土塁
 交通  : JR仙台駅等市街よりバス
       「二ノ関屋敷」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           国分氏の一族八乙女氏の居城である。八乙女氏は、国分重胤の子彦三郎政継に連なり、
          淡路盛昌を初代とする。ただし、鎌倉時代の国分氏については史料上の裏付けが薄く、重胤
          ら鎌倉期の歴代当主についてはその実在を疑問視する声もある。盛昌が実在するとすれば、
          築城は14世紀と推定されている。
           いつ頃か不明だが、八乙女氏は七北田村へ移住し、周辺を開拓した。天正十五年(1587)、
          国分家中に内紛が起きると、当主盛重の甥の伊達政宗が介入し、国分氏は事実上伊達氏の
          家臣化した。このとき八乙女氏も政宗に服し、翌十六年(1588)に旧領を安堵された。八乙女
          氏は実沢に移り住んだとされるが、八乙女館に戻ったのか、新たに屋敷を構えたのかは不明
          である。
           なお、八乙女氏については、因果関係や時系列がかなり曖昧である。『伊達世臣家譜』に
          よれば、淡路は16世紀末の人物で、政宗に逐われて七北田村に隠棲した。後に政宗によって
          旧領を与えられ、淡路の子善助が仙台藩に仕えたとされる。


       <手記>
           八乙女館は、七北田川、萱場川、八乙女川の三川の合流点に突き出た丘陵の先端を利用
          した城です。麓の集会所脇に説明板が設置されています。
           八乙女氏や八乙女館について、その草創期はほとんど不明ですが、館の遺構はかなり良好
          に残されています。主郭は畑として開墾されているものの、南側と西側の切岸や土塁が残って
          います。また、主郭の東西両面に土橋と空堀がはっきりと残っていて、見ごたえがあります。
          この両土橋の先に曲輪が形成されていたのかは不明ですが、あってもおかしくはないですし、
          あったとすれば3つの曲輪からなる城館であったことになります。
           八乙女館の最も大きな謎はその使用期間ですが、土橋による虎口が形成されているあたり
          から、少なくとも戦国時代までは現役であったと推測されます。
           ちなみにどうでもいい余談ですが、ジャニーズユニットのHey!Say!JUMPに仙台出身の八乙女
          さんがいるようで、ひょっとしてこの八乙女氏と関連があるのかなぁ…などと思ったり。

           
 八乙女館説明板。
主郭の土塁。 
 主郭東側の空堀と土橋。
主郭西側の空堀。 


BACK