淀山城(よどやま)
 別称  : 波々伯部城
 分類  : 山城
 築城者: 波々伯部氏
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、井戸跡
 交通  : JR福知山線篠山口駅からバスに乗り、
      「辻」下車徒歩15分


       <沿革>
           在地領主波々伯部(ほうかべ)氏の居城とされる。波々伯部氏は平安時代に成立した祇園社領
          波々伯部保の下司職にはじまる丹波の名族で、初代を源義家の末裔次郎左衛門房光とするもの
          の、確証はない。淀山城の築城時期についても不明である。
           足利尊氏が丹波国で鎌倉幕府打倒の兵を挙げると、波々伯部氏もこれに従い、室町幕府成立
          後は丹波守護となった細川管領家と近しい関係となった。応仁の乱の後に細川氏が波多野氏を
          多紀郡代に送り込むと、波々伯部氏はその重臣として協力した。
           天正六年(1578)に織田信長の命を受けた明智光秀が波多野氏の八上城を攻囲すると、波々
          伯部光吉は籠城方に加わった。攻囲された時点で淀山城も明智方の手に落ちていたと思われる
          が、攻城戦があったかどうかは不明である。徹底した兵糧攻めに遭った八上城は飢えに苦しみ、
          光吉ら波々伯部一族はいずれかの時期に城を退去した。翌年六月に八上城が落ちて波多野氏が
          滅ぶと、波々伯部氏は帰農して酒造業を営んだとされる。したがって、八上城攻めの時点を以て、
          淀山城は廃城となったとみられる。


       <手記>
           淀山城は、波々伯部神社のある丘のひとつ隣の小山に築かれています。東麓の溜池の裏手を
          回り込むように山裾に向かうと、説明板と登城路があります。登城路は途中まで池沿いに進み、
          柵などはなく足を滑らせたら一巻の終わりなので気を付けましょう。途中には、2か所の井戸郭が
          見られます。
           山頂の主郭を中心に数段の腰曲輪や帯曲輪があり、東西それぞれの斜面に、横堀と繋がった
          竪堀が設けられているのが大きな特徴です。主郭の背後には大きな堀切があり、その向こうには
          二の郭とされる城内最大の曲輪があります。『日本城郭大系』では、この二の郭を「居住性の強い
          郭」として、防衛拠点というより「館城」であるとしています。ただ、私が見た限りではこの二の郭に
          居館を置いていたとは思えず、堀などの手の込んだ造作から、やはり波々伯部宗家の詰城である
          と見るべきと考えます。
           『大系』では同様に、周辺に東山城や南山城が設けられているのを、淀山城の防衛面における
          不安の表れのように捉えている節がありますが、私としてはこれも疑問です。今も溜池があるよう
          に、当時周囲は泥湿地だったと考えれば、淀山城は高さはないものの充分頼るに足る要害です。
          むしろ、古くから続く名族である波々伯部氏が、一族内で分家していく過程で、それぞれの城館が
          派生していったとみるのが妥当なように思われます。

 淀山城跡全景。
登城口の説明板。 
 登城路のようす。
 足を滑らせたら溜池にドボンです。
道中1つ目の井戸郭。 
 竪堀。
2つ目の井戸郭。 
 東側斜面の帯曲輪。
同じく腰曲輪。 
 横堀(奥)から竪堀(右手)へ折れるところ。
横堀から続く竪堀。 
 横堀のようす。
主郭背後の堀切。 
 同上。
二の郭。 
 西側斜面の、堀で切り離された塚状土塁。
西側斜面の竪堀。 
 同上。
西側斜面の横堀。 
 横堀と竪堀がつながっているところ。
南西尾根の堀切。 
 主郭下の腰曲輪。
主郭の切岸。 
 主郭のようす。


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