横尾八幡城(よこおはちまん) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 尻高三河守 | |
遺構 : 曲輪跡、土塁、虎口 | |
交通 : JR吾妻線中之条駅よりバス 「天神」バス停下車徒歩15分 |
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<沿革> 現地説明板によれば、大永年間(1521〜27)の間に、尻高三河守によって築かれた とされる(『吾妻記』)。その後、尻高氏家臣塩原源太左衛門が城代となった。 天正八年(1580)、真田氏の軍勢が攻め寄せ、一度は撃退したものの、忍者の活躍 もあり、横尾八幡城は落城した。城将には富沢豊前が任じられた(『吾妻記』)。 天正十七年(1589)十二月、北条氏家臣富永助重率いる軍勢が横尾八幡城に来襲 した。富沢豊前・金子美濃守ら籠城方に加え、鎌原重幸・湯本幸胤・川原左京進らの 吾妻衆が後詰に駆け付け、真田氏は城の防衛に成功している。 これ以降、史料には登場しない。 <手記> 横尾八幡城は、名久田川沿いの丘陵が突き出た部分を利用した城です。上の地図 の付け根側に通じる破線の道は、実際には舗装されていて車でも通ることができます。 ただとても細いので、大型の車種に載っている人は東麓か八幡の集落から歩いた方 が無難です。 城の入り口には説明板が建てられています。規模も小さいですし、主郭までは迷う ことなくたどり着けます。ただ藪化がひどいので、遺構を視認するのが大変です。一応 縄張り図によれば主郭の下に2段の帯曲輪が巡り、堀が全くない単純な構造の城の ようです。なので、主郭の土塁と2つの虎口、その下の帯曲輪の土塁と虎口を見つけ られたので、概観はできたのかなと思います。主郭には標柱と石塔、そして四阿が あり、藪を払えば中之条方面の景色はよさそうです。とはいっても、ここにいたる道路 が見つけにくい&通りにくいなので、余所者のために藪を刈れなどとはいいにくい感じ です。 横尾八幡城については、疑問点が1つあります。『吾妻記』の記述にしたがうならば、 真田氏が尻高氏からこの城を奪ったのが天正八年(1580)ということになりますが、 尻高城落城および尻高領主としての尻高氏の滅亡は同二年(1574)とされています。 普通に考えれば尻高城への進軍ルート上にある横尾八幡城が尻高城と運命をともに していないとは思えません。 この点を踏まえてかどうかは分かりませんが、『日本城郭大系』では横尾八幡城の 築城を天正年間としています。私も、尻高城落城前後以降に真田氏が築いたのでは ないかと考えています。ただし、理由は『大系』のいう「小城ながら行き届いた工事」 ではありません。 1つ目は、横尾八幡城が北東を向いている城だという点です。もしこの城を尻高氏 が築いたとすれば、南西を向いているのが自然です。そして、山間のこの地域には 該当する地形がいくらでもあります。横尾八幡城の峰がとくに要害性に優れている ようには見えないため、尻高氏がここに築城する理由が見当たらないのです。 2つ目は、真田氏が尻高城を使用した形跡がないことです。『加沢記』には、尻高 落城については詳しく描かれているものの、横尾八幡城については記述がありま せん。他方、天正十七年に北条方が横尾八幡城を攻めた際に、途中眼前を通って いるはずの尻高城についての記載がありません。この点、次の推測が成り立つよう に思います。すなわち、尻高氏を攻め滅ぼした真田氏は、高い山の上の前時代的で 狭隘な尻高城を捨て、新たに横尾八幡城を築いたとするものです。あるいは、永禄 八年(1565)に嵩山城に斎藤氏を滅ぼしたのちに、中之条盆地の入り口を守備する 支城として築かれたとも考えられます。いずれにせよ、個人的には尻高氏ではなく 真田氏の築城と推測しています。 |
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横尾八幡城址遠望。 | |
入り口の説明板。 | |
主郭のようす。背後に土塁が見えます。 | |
主郭虎口その1。 | |
主郭虎口その2。 | |
主郭の土塁を外側から。 | |
主郭1段下の帯曲輪の虎口跡。 |