横武城(よこたけ) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 横岳氏か | |
遺構 : 曲輪跡、堀 | |
交通 : JR長崎本線神埼駅徒歩20分 | |
<沿革> 横武氏の城とされるが、築城者や築城年代など詳細は一切不明である。横武氏は、少弐氏 庶流の横岳氏と同一とみられている。横岳氏は、少弐貞頼の二男頼房が三根郡西島に本拠 を置いたことにはじまるとされる。 頼房の子資貞は三根郡代を務めたとされ、明応六年(1497)に主君少弐政資が大内義興に 敗れて自害すると、政資の子資元を保護した。資元は、成人すると少弐氏を再興し、勢福寺城 を居城とした。享禄三年(1530)、大内義隆が筑前守護代杉興連に命じて少弐氏を攻撃する と、資貞は大内氏に寝返ったが、田手畷の戦いで少弐軍に敗れて戦死した。他方で、資貞の 子とされる資誠は、少弐方で戦っている。 資誠の孫の頼貞は、永禄二年(1559)に少弐氏が滅んだ後は大友氏、ついで龍造寺氏に 仕えた。天正八年(1580)には、鍋島茂里が神埼郡西郷に所領を与えられて横岳鍋島家を 興した。茂里は龍造寺家臣石井信忠の長男で、世継ぎに恵まれていなかった龍造寺氏重臣 鍋島直茂の婿養子となっていたが、直茂に嫡男勝茂が誕生したために別家を立てることと なっていた。 このときまでには、横武城は廃城となっていたものと推測される。 <手記> 横武城址は、今は横武クリーク公園として整備されています。周辺は、クリークと呼ばれる 水路が縦横無尽に走る低湿地で、横武城のほかにもクリークを利用した水城のような城跡 が点在しています。表記は「横岳」や「横竹」とも書きます。 数あるクリークの城のなかでも、もっとも歴史の分からない横武城が公園として整備されて いるというのも、なんだか不思議です。園内は七島八島といった感じで、クリークに浮かぶ 島々は橋でつながれ、主郭とみられている中心的な島には、地域の伝統家屋が移築保存 されています。クリーク城の全般にいえることですが、縄張りに計画性が感じられず、水路を めぐらした城というよりは、クリークのなかに曲輪を浮かべ並べたといった体です。 さて、横武城は横岳氏の城といわれていますが、横岳氏は上記のとおり三根西島を居城と していたとされています。したがって、横武城が横岳氏の城だったとして、その経緯について は、私のなかでは2通りほど考えられます。 1つは、初代横岳頼房が最初に築き、後に西島に移ったとするものです。付近の、姉川城 や本告城といったクリーク城が15世紀初頭以前に成立した比較的古い城砦であり、頼房も 15世紀中葉の人物であることからも、この推測は補強されるものと考えられます。 もう1つは、少弐資元が勢福寺城を居城として再起した際に築かれたとするものです。この 考えは、横武城が勢福寺城の前衛的な位置にあることから発しています。また、横岳氏が 横武から西島まで領していたとすると、勢福寺城の眼前を覆うかなりの勢力になってしまう ため、少弐氏の命を受けて資貞ないし資貞離反後の資誠が築いたとする推測は、十分成り 立つものと思われます。 いずれにせよ、推測に過ぎないのでこれ以上ここで私見を書き連ねてもどうしようもない ことではあります。個人的には、横武という地名があるのに西島に住して横岳氏を名乗ると いうのも不自然に思われるので、頼房の西島入部以前に端を発する城とみるのが妥当な ように感じられます。 |
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クリーク越しに主郭とみられる島を望む。 | |
城内のクリークと曲輪の島のようす。 | |
同上。 | |
同上。 |