<沿革>
要害城は、石和から躑躅ヶ崎に居を移した武田信虎によって、永正十七年(1520)に詰の城として
築かれた。大永元年(1521)に福島(玖島)氏(福島正成といわれるが、確証はない)が甲斐に侵攻
してきた際、当城に避難した信虎夫人(大井氏)は、山麓の積翠寺(石水寺)で嫡子晴信(後の信玄)
を生んだ。
実際に城が使われたのは資料上この時のみであるが、信玄の子勝頼は天正三年(1575)の長篠
の戦いでの敗北を受けて、要害城の整備増強を命じている。
天正十年(1582)に武田氏が滅亡した後も、躑躅ヶ崎館と同じくしばらくは存続していたようで、同
十八年(1590)に甲斐24万石を与えられた加藤光泰によって修復され、慶長五年(1600)に廃された
ことが記録に残っている。
<手記>
城へは北西麓にある旅館「ホテル要害」の脇から登ることができます。実際の大手は「根古屋」の
字が残る南西麓にあったようですがこちらには登山道がありません。要害城の保存状況は極めて
良好で、山頂の主郭までは30分ほどの急な登り道ですが、その中途にはいくつもの虎口遺構を、
複雑かつ連続的に見ることができます。これらの虎口は、その多くが門脇の石積みまでほぼ完全な
形で残されていて、その名のとおりの要害ぶりを容易にうかがい知ることができます。
主郭も、表裏双方の虎口と周囲を巡る土塁が残されています。また、主郭後方には三条の堀切と
土橋が残っていて、総じて圧巻の一言に尽きます。
余談ですが、ホテル要害の積翠寺温泉は、信玄誕生の際に産湯として使われた鉱泉と伝えられて
います。甲信州の数多の温泉が、嘘か真か「信玄隠し湯」を名乗っていますが、この積翠寺温泉に
関しては記録が残っていることもあり、信憑性が高いと思われます。ここの露天風呂から一望できる
甲府盆地の夜景はまさに絶景でした。
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