<沿革>
永正十五年(1518)ないし同十六年(1519)に、甲斐守護武田信虎によって川田館(石和館)
に代わる新たな居館として築かれた。当初は、現在武田神社が建つ中曲輪や東曲輪からなる
ほぼ単郭式の方形館で、信虎の子晴信(信玄)によって、後に北曲輪(味噌曲輪・隠居曲輪)・
西曲輪が増設されたといわれる。
信玄の死後、織田氏の脅威が迫ると、信玄の子勝頼は甲斐での決戦を考慮に入れて、天正
十年(1582)に新府城を築き、居城を移した。このとき、植木の一本一本に至るまで念入りに
破却し、家臣の思い入れも強い信玄時代の国府からの移転を強行したと伝えられる。ところが、
この極端な廃城のやり方は、勝頼と宿老たちとの確執をさらに深めることになった。
同年に武田氏が織田氏に滅ぼされると、甲斐には織田家臣河尻秀隆(鎮吉)が封じられた。
秀隆は躑躅ヶ崎館ないし岩窪館で統治に当たったとされる。しかし、同年中に本能寺の変が
起きると、秀隆は蜂起した武田遺臣によって殺害された。
本能寺の変に続く天正壬午の乱によって、徳川家康の甲信州領有が決定すると、甲斐統治
は平岩親吉に委ねられた。親吉は躑躅ヶ崎館に入り、天守をはじめとする今日の縄張りを完成
させたと考えられている。天正十一年(1583)から、一条小山に甲府城の築城が開始されたと
みられており、同城は家康の関東移封後の文禄三年(1594)ごろに落成した。この間に甲斐の
国府は甲府城へ移され、躑躅ヶ崎館は廃されたものと推測されるが、正確な廃城年は不明で
ある。
<手記>
本来は武田氏館とするのが正式だと思われますが、通称の躑躅ヶ崎館の方が有名なので、
この場はそちらを表題としました。この別称は、館の東に隣接する峰の鼻を「躑躅ヶ崎」と呼んだ
ことにちなんでいます。
甲府駅北口から武田通りをまっすぐ進むと、躑躅ヶ崎館跡である武田神社につきます。地図
上ではほぼ平坦に見えますが、扇状地特有の勾配が延々と続き、見た目以上に登りがきつい
です。躑躅ヶ崎館は、相川が形成する扇状地形の要(付け根)に位置しており、南方のみ甲府
盆地へ開けています。到着してふと後ろへ振り向けば、意外ほどの眺望に驚くことでしょう。
現在、本城域と西曲輪、そして北曲輪の一部が残されています。その周囲は、館と呼ぶには
不相応なほどの高土塁と深い堀が巡っています。本城域の北西には、社務所の裏に隠れて
分かりにくいのですが、徳川時代以降に築かれた天守台の石垣が残っています。以前はふら
ふらっと見に行くことが出来たのですが、何故か立ち入り禁止になっていました。
余談ですが、甲州人の商い上手は有名だそうで、あらゆるものに武田家の紋である武田菱を
くっ付けて売っています。私は武田神社で武田菱のついた御神酒ならぬ「武田神社甲州ワイン」
を買って帰りました。
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