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弓木城(ゆみのき) |
別称 : 稲富城、忌木城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 稲富氏 | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀跡 | |
交通 : 京都丹後鉄道岩滝口駅徒歩30分 | |
<沿革> 有力国人・稲富氏の居城とされる。稲富氏は伊勢平氏流を称し、はじめ山田氏を名乗って いたが、弓木城を築いて丹後に土着した後、稲富姓に改めたとされる。その由来は定かで ないが、『丹後国田数帳』に「稲富保」とあり、ここから取られたとも考えられる。 2代目とされる祐秀(直時)は、佐々木義国から鉄砲術を学んだ。その孫の祐直(直家)は、 祖父から伝えられた技術に工夫と研究を加え、稲富流砲術の開祖となったとされる。 天正六年(1578)、稲富氏の主君である一色義道が織田家重臣・明智光秀麾下の長岡 (細川)藤孝に攻め滅ぼされると、義道の子とされる満信(義定)が弓木城に拠って旧臣らを 糾合し、抵抗をつづけた。これに手を焼いた光秀は、藤孝の娘・伊也を満信に娶らせる条件 で和議を結んだ。 満信は弓木城を居城として丹後北半を領したが、天正十年(1582)に本能寺の変が起きる と光秀を支持したため、静観の構えを取る細川氏と対立した。まもなく山崎の戦いで光秀が 滅ぶと、満信は同年九月に宮津城へ呼び出されて謀殺された。この仕打ちを恨んだ伊也は 兄・忠興に短刀で斬りかかり、忠興は鼻に一文字の傷を付けられたともいわれる。 弓木城にもすかさず討手が差し向けられて落城したが、ほどなく満信の叔父で吉原城主の 一色義清が城を奪還した。しかし、改めて細川氏が攻城軍を編成すると、義清らはその本陣 へ決死の切り込みをかけ、下宮津で討ち死にしたとされる。 これにより丹後一色氏は完全に滅亡し、弓木城も廃されたとみられる。ちなみに、祐直は いずれかの時期に細川氏へ鞍替えし、関ヶ原の戦いで忠興の妻・ガラシャが自害した際に 追随せず逃亡した。これを聞いた忠興は激高して祐直を捕殺しようとしたが、砲術の知識を 見込んだ徳川家康に匿われ、最後は尾張徳川家に仕えている。 <手記> 旧岩滝町の市街に臨む小高い峰上の城で、現在は城山公園となっています。岩滝小学校 の向かいには、地権者のご厚意で駐車場も整備されていました。 主郭の後部には櫓台状の詰段があり、水無月神社が祀られています。主郭周囲の切岸は かなり急峻で、北西には箱堀状の鞍部を挟んでもう一つ小さな櫓台状土塁があり、こちらの 上には城山稲荷がありました。主郭南東方面は水無月神社の参道が伸びていて、また宅地 開発により山肌がいくらか削られているようです。水無月神社ではこの急な参道を、神輿を 担いで下る「「神輿おろし」という神事が数百年続いていましたが、担い手不足により2024年 を以て幕を閉じたそうです。 主郭の東方にも、やはり箱堀状の鞍部を挟んで曲輪群が延びています。また、西光寺墓地 となっている主郭北東の支尾根は出丸とされています。尾根一面が墓地化されていて、明確 な遺構はみられませんが、段築などは城の曲輪面をそのまま利用していると思われます。 弓木城は一色氏の居城に相応しい規模を有しているものの、堀はほとんど用いていません。 切岸を最大の防御設備として曲輪を重ねる構造は丹後の城館に一般的なもので、一色氏の 滅亡とともに廃城となったことの傍証といえるのではないでしょうか。 |
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弓木北城から弓木城の全景を俯瞰。 | |
城山公園駐車場の説明板。 | |
城山稲荷。 | |
稲荷前の箱堀状鞍部から主郭切岸を見上げる。 | |
主郭のようす。 | |
主郭詰段。 | |
主郭の石碑。 | |
主郭前方の水無月神社参道。 | |
主郭東側の箱堀状鞍部。 | |
主郭東方の出郭。 | |
出郭先端部の腰曲輪群。 | |
主郭西下の曲輪および土塁状地形。 ただし、遺構かは不明。 |
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出丸の西光寺墓地を俯瞰。 | |
出丸の曲輪跡を利用した段築か。 |