| チューリッヒ (Zürich) |
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| 別称 : トゥリクム | |
| 分類 : 都城 | |
| 築城者: ローマ帝国 | |
| 交通 : チューリッヒ中央駅下車 | |
| 地図 :(Google マップ) | |
<沿革> ローマ時代、チューリッヒの中心部にあるリンデンホーフの丘の麓にトゥリクムという集落が 営まれていた。リマト川およびチューリッヒ湖の渡渉点として経済的に重要であったこの町は、 もともとは三方を湖水に囲まれていたが、干拓により丘の南方に平地が形成されていった。 民族移動時代に入ると、4世紀初めごろにアレマン人の侵入に備えるため、丘の上に城砦が 築かれた。 843年にフランク王国が三分されると、トゥリクムは東フランク王国に属した。東フランク王 ルートヴィヒ2世の祖父カール大帝が、トゥリクムに宮殿の一つを構えて実際に居住していた とする伝説があるが、確証はない。リンデンホーフの城砦はルートヴィヒ2世によって王宮に 改修されたとみられている。また853年7月21日には、ルートヴィヒ2世は既にあった修道院 に広大な領土と治外法権および裁判権を与えたうえで、長女ヒルデガルトに譲渡するとする 公文書を発給し、これに基づいて女子修道院「フラウミュンスター」が設立された。このころ までに、トゥリクムから転じてチューリッヒの都市名が定着したとみられている。当時の市内 にはリンデンホーフの王宮やフラウミュンスターのほか、グロスミュンスターや聖ペーター 教会が独自の領土や教区をもって並立し、それぞれが城壁に囲まれている状態であったと 推測されている。 919年、チューリッヒはシュヴァーベン公ブルヒャルト2世に征服された。ザーリアー朝神聖 ローマ皇帝コンラート3世とギーゼラ・フォン・シュヴァーベンの子ハインリヒは、父から1038年 にシュヴァーベン公に封じられた。翌年に父が没してハインリヒ3世(黒王)としてドイツ王に 即位すると、ハインリヒ3世は1045年にロートリンゲン宮中伯オットー2世をシュヴァーベン公 に任じた。並行してフラウミュンスター修道院に貨幣鋳造権や関税徴収権、市場開設権など が認められ、修道院がチューリッヒ市の実質的な支配者となった。これは、ハインリヒ3世に よる貴族弱体化政策の一環であったといわれる。他方で、リンデンホーフの宮殿は皇帝の 命で増改築されたとみられ、帝国議会の開催地として使用された。 フラウミュンスターおよびグロスミュンスターの教会守護職はレンツブルク家が世襲して いたが、1079年ごろにツェーリンゲン家の手に移った。11世紀末にシュヴァーベン公に選出 されたツェーリンゲン公ベルトルト2世の子コンラート1世は、シュヴァーベン公ではなかった ものの、チューリッヒの実質的な統治者として最初の都城壁を築いたとされる。 1218年にシュヴァーベン系ツェーリンゲン家が断絶すると、シュヴァーベン公でもあった 皇帝フリードリヒ2世はチューリッヒの所領を分割し、リマト川右岸をキーブルク伯に、左岸を エッシェンバッハ=シュナーベルブルク男爵家に与えた。翌1219年にはチューリッヒ市が帝国 自由都市となり、市議会に独立した施政権が認められた。フラウミュンスターの修道院長が 再び市の事実上の統治者となったが、その職位が帝国の公爵位と紐づけられていたこと、 グロスミュンスターと勢力が競合していたこと、そして商都であるため商人や職人の発言力 が強かったことなどから、専権的に振る舞うことはできなかったとされる。13世紀後半以降 は聖職者の政治的地位が弱体化し、市民や帝国から派遣される執政官が市議会で重きを 成すようになった。 1273年にハプスブルク家のルドルフ1世が皇帝に即位すると、帝国税の徴収方法を巡って チューリッヒとの間に諍いが生じた。1291年にルドルフ1世が没すると、チューリッヒはハプス ブルク家との戦争に突入した。チューリッヒ軍はハプスブルク側の都市ヴィンタートゥールを 攻めたが大敗し、却ってルドルフ1世の子アルブレヒト1世にチューリッヒを包囲され、6か月の 攻防の末1292年4月に降伏を余儀なくされた。その結果、市議会ではハプスブルク家を支持 する商人層が発言力を増した。 1336年、騎士ルドルフ・ブルンを首魁とするクーデターが発生し、新憲法(ブルンのギルド 憲章)を掲げて翌年に皇帝から追認を受けた。追放された市議会議員らはラッパースヴィル へ逃れて亡命政府を樹立し、1350年に「チューリッヒ暗殺の夜」を企てたが失敗に終わった。 新憲法では市長の権限が大幅に強化され、騎士や裕福な市民、そして職人ギルトの選挙区 が設定された。 ラッパースヴィルはハプスブルク=ラウフェンブルク家の居城であったが、チューリッヒ暗殺の 夜への報復としてブルン自ら軍勢を率いて徹底的に焼き払ったため、チューリッヒは翌1351年 にスイス原初同盟へ加盟してハプスルブルク家と対峙した。1354年にかけて、3度包囲された ものの、ブルンの指揮の下で耐え抜き、1355年に和議が成立している。 16世紀後半には、第二次といわれる都城の強化および近代化が実施された。1624年には 第三次要塞化が議決されたが、1638年までは旧来の構造物の補強や増改築にとどまったと される。 1798年、フランス軍の侵攻によってヘルヴェティア共和国が成立したが、翌1799年6月の 第一次チューリッヒの戦いでオーストリア軍がチューリッヒを奪回した。同年9月には第二次 チューリッヒの戦いが発生し、激しい戦闘が繰り広げられた末、大同盟軍がナポレオン軍に 敗れている。1802年にフランス軍が撤退すると、チューリッヒはヘルヴェティア共和国からの 脱退を図った。同年9月にヘルヴェティア政府軍がチューリッヒを攻囲したものの失敗に帰し、 翌1803年にナポレオンが介入してスイス盟約者団体制が復活した。 1833年、チューリッヒ市政府によって要塞の解体が決定された。当時、都市部と農村部の 間で対立が顕在化しており、都市を囲う城壁や濠は両者の分断の象徴と見做されていた。 他方で、防御設備の放棄は反乱に対する抵抗能力の喪失を意味し、チューリッヒ市政府の 地方に対する妥協の産物ともいえる。解体工事は1903年に完了し、城塞都市としての歴史 に幕を閉じた。 <手記> チューリッヒはスイス最大の人口をもつ都市で、日本でも保険会社名などでおなじみです。 ミカヅキモ状の細長いチューリッヒ湖の北西端出口に位置し、市街中心を流れるリマト川は アーレ川と合流してライン川へとつながっています。 街のはじまりといえるリンデンホーフの丘は、旧市街を見渡すビュースポットとなっています が、城館跡の遺構はほぼ残っていません。川沿いに見える城壁風の石壁も、中世城館とは 無関係のようです。 城塞跡として見た場合、注目すべきは西辺の稜堡跡と水濠でしょう。破城の経緯を鑑みる と、濠沿いの城壁もまた当時の遺構ではないかもしれませんが、外郭のラインを歩いている だけでも城塞都市のころの雰囲気が味わえます。なにより驚いたのはその澄んだ蒼い水の 色です。私はこんなに水のきれいな要塞濠を見たことがありません。この濠は湖水を引いて いて、旧市街の北でリマト川に合流してます。すなわち湖の水が絶えず流れ込んでいるから 透明度が保たれており、水害対策にもなることため、破城後もリマト川の側流として維持され てきたものと推察されます。西端の稜堡はもともとあった小丘を利用したもので、今は小さな 温室をもつ植物園兼公園となっています。 旧市街には中世に中心的な役割を果たしたフラウミュンスターとグロスミュンスター、および 聖ペーター教会が今も建っています。私はこのうちフラウミュンスターだけ入館し、1970年に 設置されたマルク・シャガールのステンドグラスを鑑賞しました。チューリッヒ美術館にも行き たかったのですが、月曜だったためこちらは休館。水曜日であれば無料で開放されている そうです。 |
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| リンデンホーフの丘近望。 | |
| 丘上のようす。 | |
| 丘からチューリッヒ湖方面の眺望。 | |
| 同じくリマト川下流方面の眺望。 | |
| 西辺の濠と稜堡跡。 | |
| 同上。 | |
| 同上。水がたいへん澄んでいます。 | |
| 同上。 | |
| 同上。 | |
| 西端の稜堡跡の小丘。 | |
| 稜堡跡小丘頂部。 | |
| フラウミュンスター修道院。 | |
| シャガールノステンドグラス。 | |
| グロスミュンスターを望む。 | |