ヒルシュホルン城 ( Burg Hirschhorn ) |
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別称 : なし | |
分類 : 山城(Hangburg) | |
築城者: ヨハン・フォン・ヒルシュホルン | |
交通 : ネッカーシュタイナハ駅徒歩15分 | |
地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 1270年に、ヨハン・フォン・ヒルシュホルンの城として初めて記録に登場する。ヨハンは、 ヘッデスバッハのハルフェンブルク城主ブリッガー・フォン・ハルフェンベルクの子とされる。 ブリッガーは、ヒルシュホルンの南西7kmほどのところにある後城の城主ブリッガー2世・ フォン・シュタイナハの子といわれる。 ヒルシュホルン家の入植前の13世紀前葉には、ここはロルシュ修道院の封土であった。 ヒルシュホルン城の前身となる城がロルシュ修道院によって築かれていた可能性も指摘 されているが、憶測の域を出ていない。また、この場合にロルシュ修道院の城が何と呼ば れていたのかも不明である。 1317年に、ヨハンの子アルブレヒトは城をマインツ大司教も利用できるようにしたが、 このときの記録では、ヒルシュホルン城について単郭の小城として述べられている。アル ブレヒトの子エンゲルハルト1世は、土地や城を担保に周辺諸領主に金を貸すという手法 で勢力を拡大した。エンゲルハルト1世の時代に、城が拡張されたといわれる。エンゲル ハルト1世の子エンゲルハルト2世は、父の拡大路線を継承したものの、私闘(フェーデ)に 訴えることが多くなり、あまつさえマインツの聖遺物を巻き込んだりもしたため、1364年に 帝国アハト刑に処された。エンゲルハルト2世は幽閉され、その領地はプファルツ選帝侯に 預けられた。1383年にヒルシュホルン家は刑を解かれ、エンゲルハルト2世の子ハンス5世 によって、縮小されたもののかつての領地を回復した。この後、1632年まで同家が城主家 に留まり、城も漸次増改築されていった。 1632年にヒルシュホルン家は無嗣断絶し、遺領はマインツ選帝侯の支配下に置かれた。 三十年戦争でスウェーデン軍に占領されたが、1636年に同軍が撤退し、ケルン選帝侯の 宮内官ルドルフ・ライツ・フォン・フレンツが城館と町を抵当として獲得した。1676年には、 ヴェストファーレンのヨハン・ヴィルヘルム・フォン・デア・レッケが城主となった。1700年から はマインツ選帝侯の直轄領となり、ヒルシュホルン城は代官所となった。しかし、城の補修 はあまり行われなかったようで、時とともに傷みが生じるようになっていった。 1803年の陪臣化(Mediatisierung)によってヒルシュホルンはヘッセン邦領となり、城には 地方役庁が置かれた。1959年に、城の居館部分を改修してホテルが開業した。その他の 部分は私有もしくは市の出先機関となっている。 <手記> ヒルシュホルンはネッカー川流域のなかでもリゾート地として知られ、ヒルシュホルン城の 古城ホテルも古城街道のなかで指折りの有名ホテルとなっています。城は南向きの尾根 の中ほどに位置していて、東麓でネッカー川が大きく屈曲しています。眼下には、ヒルシュ ホルンと対岸のエルスハイムの町が望めます。 私は宿泊したわけではないので、建物内を自由に見て回ることはできませんでしたが、 主塔の中途までは上がることができました。また、テラスにはカフェがあるので、こちらで くつろぎながら景色を楽しむこともできます。 城は、主副2つの曲輪が階郭式に並ぶ縄張りをしています。主郭部分は、ホテルとして 改装されているため、古い城の佇まいを伝える遺構としては副郭のものがより雰囲気が あります。とりわけ、なかば廃墟となった隅塔跡や、かつては櫓門形式だったと思われる 大手門(?)などは、私からみるとててもいい味を出しています。ホテル目当ての人は迷わず 主郭へ直進しますが(笑)。 ちなみに、ヒルシュホルンとは和訳すると「鹿角」となり、町の紋章にもヒルシュホルン家 の家紋にも、当然のごとく鹿の角がデザインされています。 |
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副郭の城門。 | |
副郭の城壁。 | |
副郭の城門と隅塔を望む。 | |
主郭城門。 | |
古城ホテルの上(主塔の中途)からの眺望。 | |
カフェテラスからの眺望。 |