梨打城(なしうち)
 別称  : 梨内城
 分類  : 山城
 築城者: 江馬氏か
 遺構  : 曲輪、土塁、堀、虎口
 交通  : JR高山本線飛騨国府駅からバスに乗り、
      「八日町」下車徒歩20分


       <沿革>
           江戸時代の地誌『飛州志』には、江馬輝盛の持ち分とある。永禄七年(1564)、武田信玄に
          臣従していた江馬時盛は、武田氏が三木氏を攻め降すと高山盆地の三仏寺領を与えられた。
          江馬氏の居城・高原諏訪城と高山盆地の結節点に位置する梨打城は、これ以降に築かれた
          と推測されるが、築城の経緯は明らかでない。天正元年(1573)に信玄が没すると、新上杉で
          あった時盛の子・輝盛(養子説あり)は、時盛を殺害して家督を奪取した。「輝盛の持ち分」が
          輝盛による築城を意味するのであれば、梨打城が築かれたのはこれ以降ということになる。
           天正十年(1582)に本能寺の変が起きると、輝盛は織田信長を後ろ盾としていた姉小路頼綱
          (三木自綱)と飛騨の覇権をかけて雌雄を決すべく、同年十月二十六日に古川盆地の小島城
          を夜襲した。しかし、城主小島氏の激しい抵抗に遭って荒城へ退き、翌二十七日に梨打城下の
          八日町で頼綱の本隊を加えて両軍が激突した。輝盛は騎馬隊を率いて果敢に突撃し、頼綱軍
          を圧倒していたが、狙撃を受けて落命したため、大将を失った江馬軍は瓦解した。姉小路勢は
          勢いのまま高原郷まで攻め入り、高原諏訪城を攻め落として江馬氏を滅ぼした。梨打城北東の
          大坂峠は、この八日町の戦いにちなんで十三墓峠とも呼ばれる。
           梨打城も成すすべなく落城し、そのまま廃城となったものと推測される。


       <手記>
           八日町集落の背後に悠然と構える、比高180mほどの山が梨打城跡です。ハンカチの中心を
          つまんで引っ張り上げたような、テント様の山容が印象的です。南東麓の菅原神社の鳥居前に
          城址碑が建っていて、本殿裏手の獣除けフェンスを抜けて谷筋から左手の尾根に取りつけば、
          南端の堀切まで直登できます。
           山頂の主郭を中心とした三つ又のプロペラのような縄張りをしていて、南・北東・西の三方の
          尾根には、それぞれ堀切や土塁を伴った長くて広い曲輪が延びています。これら3つの曲輪は
          いずれも削平が完全ではなく、この城が統治ではなく中継や経路確保などの純粋に軍事的な
          拠点であったことが感じ取れます。
           主郭の切岸や尾根筋の堀切の深さなどを見ても、その工事量の多さがうかがえるでしょう。
          江馬氏からみれば、古川盆地や高山盆地へ進出するにあたって、欠くことのできない要衝で
          あり、その重要性に相応しい規模といえます。

           
 梨打城跡全景。
登山口の菅原神社。 
 城址碑。
南端の堀切と土橋。 
 南曲輪南端の土塁と虎口。
南曲輪南端付近のようす。 
 南曲輪西辺の土塁。
同土塁途中の虎口。 
 南曲輪東辺下の帯曲輪。
南曲輪から主郭を望む。 
 主郭切岸。
主郭のようす。 
 主郭の土塁。
主郭東側の堀切状地形。 
 主郭西方の堀切。
西曲輪先端の土塁。 
 西曲輪先端下の堀切。
同上。 
 西曲輪北側下尾根筋の腰曲輪群。
腰曲輪群を下から見上げる。 
 腰曲輪群脇の谷筋の削平地。
東曲輪の土塁。 
 東曲輪南辺下の横堀状地形。
東曲輪先端下の腰曲輪と土塁。 
 腰曲輪下の堀切。
堀切から続く2本の竪堀とその間の竪土塁。 
 竪土塁東側の竪堀。
東曲輪北東端の1条目の堀切。 
 同上。
2条目の堀切。 
 同上。


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