阿千葉城(あちば)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 東胤行
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : 長良川鉄道万場駅徒歩25分


       <沿革>
           千葉氏庶流東氏3代東胤行は、承久三年(1221)の承久の乱での戦功により美濃国郡上郡
          山田庄を与えられた。阿千葉城は、胤行によって在地の居館として築かれたとされる。
           胤行を初代とする郡上東氏4代目の東氏村は、新たに篠脇城を築いて居城を移した。氏村は
          胤行の子とされるが、鎌倉末期から南北朝時代にかけて活動した氏村とは没年に百年以上の
          差があり、間に最低1代を挟まなければ不自然と考えられる。
           その後しばらく阿千葉城の扱いは不明となるが、戦国時代に入って鷲見氏が阿千葉城主と
          なった。鷲見氏は郡上郡芥見荘鷲見郷を本貫とする国人で、文明十年(1478)に鷲見保重が
          鷲見城を弟保兼に譲り、自身は山県郡の北野城に拠って2流に分かれていた。鷲見城鷲見氏
          は東氏に敗れてその臣下となり、阿千葉城への移城を命じられたものとみられている。
           天文十年(1541)、東氏当主東常慶は鷲見氏を警戒し、阿千葉城へ兵を向けた。保兼の甥と
          される鷲見貞保は防戦したが敗れ、遺児千代丸を家臣餌取広綱に託して自刃した。これにより
          阿千葉城も廃されたと考えられているが、確証はない。なお、千代丸は成長して正保と名乗り、
          東氏を下克上した遠藤盛数に仕えて大嶋村を与えられたといわれる。


       <手記>
           阿千葉城は、長良川とその支脈に三方を囲まれた峰先に築かれています。南西麓に説明板
          や駐車スペースがあり、上まで登山道も付いています。麓の道路は、長良川の西岸に新道が
          出来て以降は途中で閉鎖されているようで、南側からしか行き着けないようです。
           城内には石碑や四阿などが設置され、公園化に伴いやや地形が改変されているように感じ
          られます。二の郭には池跡のような地形がありますが、遺構かどうかは分かりません。主郭と
          二の郭の東辺には土塁がみられ、これらはおそらく遺構でしょう。
           背後の尾根筋には、土塁線とそれに沿った堀底道状の地形が続いています。公園に必要な
          造作とは思えないのでこれも遺構なのでしょうが、どのような防衛構想に基づくものかいささか
          疑問です。尾根の途中には1条堀切があり、さらに下った鞍部にも堀があったと思われますが、
          痕跡はわずかです。
           登山口の説明板に載っている縄張り図によると、さらに後方2つのピークに渡って遺構が展開
          しているように描かれていますが、結論からいうと、私が見た限りではそこまで城域が広がって
          いたようには見えません。たしかに、背後1つ目のピークの頂部は削平された痕跡がみられます
          が、それ以上の造作はみられず、辛うじて物見台ないし出丸程度に使われた可能性は考えらる
          でしょう。ですが、その背後の鞍部に至っては緩やかな自然地形で、これより奥に広げたところ
          で、鷲見氏の地力で守り切れるとは思えません。縄張り図の作者の方は他の城跡でも立派な
          縄張り図を作成していらっしゃるようですが、さすがに何でも遺構病が過ぎるように感じます。
           ちなみに阿千葉という地名は周囲にみられず、おそらく東氏が千葉氏庶流(阿流)であること
          による名称と推察されます。

           
 阿千葉城跡遠望。
登山口。 
 登城路の一部となっている旧越前街道。
二の郭のようす。 
 同上。
二の郭の池状地形と土塁。 
 主郭のようす。
主郭からの眺望。 
 背後尾根の土塁線と堀底道状地形。
尾根筋の堀切跡。 
 鞍部付近の土塁線。
鞍部の堀切跡。 
 鞍部から1つ背後の峰を見上げる。
同峰の頂部。 
 頂部背後の鞍部。
 さすがに自然地形のようです。


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