篠脇城(しのわき)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 東氏村
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口、井戸
 交通  : 長良川鉄道徳永駅徒歩40分


       <沿革>
           鎌倉末から南北朝時代にかけての郡上東氏当主東氏村によって、阿千葉城に代わる新たな
          居城として築かれたとされる。氏村は郡上東氏初代東胤行の子とされるが、両者の没年に百年
          以上の開きがあり、間に最低1代は挟む必要があると思われる。
           応仁二年(1468)、東氏数の守る篠脇城が美濃の斎藤妙椿に攻め落とされ、和歌書など東氏
          代々の書物も焼亡した。幕府の命で関東へ下向・転戦していた氏数の弟常縁は、これを聞いて
          嘆き悲しみ、心境を歌にしたためた。人伝てにその歌を知った妙椿は、感じ入って「自分に歌を
          10首詠んでくれれば城を返還する」と申し出た。ただちに詠歌を贈った常縁は、妙椿と対面して
          城と所領の受け渡しを行い、以後両者は歌人としての交流を続けたとされる。
           常縁はまた、二条派の『古今和歌集』解釈を伝授されており、文明三年(1471)には連歌師の
          宗祇が講釈を受けるため篠脇を訪れている。いわゆる古今伝授とは、今日では常縁−宗祇に
          始まる系統を指す。
           天文九年(1540)八月、越前の朝倉孝景が侵攻し、篠脇城を攻囲した。常縁の孫常慶らは、
          籠城して敵兵に石を投げつけるなどして撃退したとされる。東勢は撤退する朝倉勢を追撃して
          多くの兵を討ち取り、城下北東の峠道は、その屍で塞がれ3日間通行できなかったとされる。
          その古戦場は、今も三日坂の名で呼ばれている。
           城は守れたものの、激戦によって城下は荒廃し、常慶は居城の移転を決めた。吉田川沿いの
          の急峻な峰上に東殿山城(赤谷山城)を築いて移ると、篠脇城は廃城となったとされる。


       <手記>
           篠脇城は、栗巣川の谷筋を見下ろす峰の1つに築かれています。「古今伝授の里 フィールド
          ミュージアム」が麓にあり、駐車場も完備されているほか、登山道もしっかりしているので一般の
          ハイキング客にも人気のようです。また、山麓居館の東氏館跡庭園もきれいな公園として整備
          されていて、私が訪れたときはちょうど桜が見ごろでした。
           篠脇城といえば、なんといっても全周にびっしりと張り巡らされた畝状竪堀が有名です。とくに
          登山道が行き着く東辺は樹木も整理されて見学しやすく、これを見て歓声を上げない城跡好き
          はいないでしょう。そのなかのいくつかは登った先が虎口状になっていて、通路を兼ねていた
          可能性も考えられます。背後にはこれまた立派な堀切があり、その先にも曲輪が続いていると
          いうことなのですが、残念ながら未整備のようで藪林が茂っていました。
           他方で、曲輪については小規模かつ単純で、親指型の山上を3段ほどに削平しているに過ぎ
          ません。畝状竪堀群と曲輪の規模のアンバランスさは、篠脇城を巡る論点の1つではないかと
          感じます。
           また、朝倉勢との攻防戦に際し、この畝状竪堀を有効に使って岩石を落とし、敵兵を撃退した
          とする説明がちらほら見られますが、史料上確認できるのは「投石で応戦した」という事実のみ
          です。この点について、天文九年という時代を鑑みると、これほどの畝状竪堀を設ける築城術
          はまだ浸透していなかったのではないかとする見方も呈されています。たしかに、畝状竪堀が
          それほど威力を発揮したのであれば、即座に居城を移転する必要はないようにも思います。
           他の東氏・遠藤氏系の城に、これほどの畝状竪堀を持つ城がないというのも、東殿山城築城
          後に篠脇城が使用されていたのではないかとする説の論拠の1つとなっているようです。とは
          いえ、その場合は誰が篠脇城に畝状竪堀群を設けたのかが問題となります。可能性があると
          すれば、越前朝倉氏や飛騨三木氏あたりでしょうが、遠藤氏時代以降に両氏が篠脇付近まで
          攻め入ったという話は聞きませんし、もし郡上郡深く侵攻したとしても、篠脇城だけを取り立てる
          理由が見当たりません。
           個人的には、やはり篠脇城が特別であったのは東氏時代に限ると思われることから、常慶の
          ころに設けられた造作ではないかと推察しています。さらに穿った見方をすれば、労力をかけて
          造ったものの、朝倉氏との攻防戦で実際にはそれほど防備に寄与せず苦戦を強いられたため、
          あっさりと見捨てられたのではないかな、とも考えています。

           
 篠脇城跡を望む。
麓を流れる栗巣川。 
 東氏館跡庭園。
東氏館跡の桜。 
 登って初めて遭遇する大竪堀。
東辺の畝状竪堀を下から見上げる。 
 同上。
通路となっている畝状竪堀の1つ。 
 その上の虎口状地形。
東辺の横堀と畝状竪堀。 
 同上。
竪堀が二又になっているところ。 
 背後の堀切。
堀切から続く竪堀。 
 最初の大竪堀を上から。
東辺の畝状竪堀を上から。 
 北辺の竪堀。
井戸跡。 
 曲輪の虎口跡。
主郭下段のようす。 
 主郭下段から上段を望む。
主郭上段のようす。 
 主郭上段の土塁。
主郭上段背部の櫓台状態土壇と霊魂堂。 
 西辺の畝状竪堀。
同上。 
 三日坂。


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