加里屋城(かりや) | |
別称 : 大鷹城、赤穂古城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 岡豊前守 | |
遺構 : なし | |
交通 : JR赤穂線播州赤穂駅徒歩10分 | |
<沿革> 『赤穂郡志』によれば、享徳年間(1452〜55)に赤松氏一族の岡豊前守(光広)が、千種川 上流の有年にある大鷹山城を赤穂の平地に移したのがはじまりとされる。 天正年間(1573〜92)に赤穂が宇喜多氏領となると、家人津浪法印が代官として派遣され たとされる。『郡志』によれば、津浪法印が居を構えたのは「城ヶ洲」と呼ばれるところで、後に 浅野氏時代に近藤源八郎の屋敷が置かれたところとされる。この地は、現在の赤穂城三の丸 に含まれ、岡氏の加里屋城とは異なるものとみられる。 したがって、岡氏の加里屋城は宇喜多氏によって廃されたものと推測されるが、その時期や 経緯は詳らかでない。宇喜多三老の1人に岡豊前守家利がいるが、加里屋城主の岡氏と関連 があるのかは不明である。 <手記> 加里屋城は赤穂城の前身となった城ですが、その所在地について詳しいことは分かっていま せん。『探訪ブックス 山陽の城』には、現在の赤穂城下の寺町付近が「古城」と呼ばれていると あります。個人蔵の池田氏時代の赤穂城下絵図には、現在は水路となっている大蓮寺の裏手 に長池と呼ばれる堀状の池があり、その向かいの花岳寺と高光寺の間付近には「鉄砲屋敷」と 呼ばれる区画が見受けられます。その東側の、現在は千種川の副流となっている熊見川には、 当時船溜りがあったとされています。これらの状況証拠から、加里屋城は大蓮寺ないし花岳寺 周辺にあったのではないかと推測されます。 他方で、赤穂城の別称が同じ加里屋城であることから、中世の加里屋城をベースに赤穂城が 築かれたとする見方も一部にあるようです。ですが、赤穂城築城以前には「洲」とよばれていた 海辺の砂浜という立地に、中世城館が築かれるものかというと、どうも可能性は低いように思い ます。 |
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大蓮寺。 | |
花岳寺。 |