赤穂城(あこう)
 別称  : 加里屋城
 分類  : 平城
 築城者: 池田政綱
 遺構  : 石垣、天守台、堀
 交通  : JR赤穂線播州赤穂駅徒歩15分


       <沿革>
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの戦功により、池田輝政が姫路52万石に封ぜられると、
          輝政は赤穂に重臣垂水半左衛門勝重を代官として送った。勝重の置いた代官所の位置は
          詳らかでないが、『赤穂郡志』によれば、後の赤穂藩時代に奥野将監の屋敷があったところ
          とされる。将監の屋敷は、現在の赤穂城址三の丸東端清水門脇にあったとされる。
           赤穂に本格的に城が築かれるのは、元和元年(1615)に輝政の五男政綱が3万5千石を
          分知されてからである。政綱は、寛永八年(1631)に若くして没し、跡を弟の輝興が継いだ。
          輝興時代の赤穂城下を描いた個人蔵の絵図によると、当時の赤穂城はほとんど矩形単郭
          の城で、城というより陣屋に近いものであったとみられる。政綱・輝興時代には、築城よりも
          城下町形成に力が入れられていたようで、とくに海沿いの町であったため地下水が使えず、
          河川から引き入れた上水道は、その歴史の古さから日本三大水道に数えられている。
           正保二年(1645)、輝興は突如として正室や侍女を斬り殺し、発狂したとして改易された。
          同年、笠間藩主浅野長直が5万3千石で赤穂藩主となった。輝興改易の際に、長直が城の
          受け取りを務めたことが縁とされる。長直は、慶安元年(1648)六月に、幕府に新城築城を
          願い出て即決で許可を得た。設計や資材調達など、築城の下準備は、浅野家臣で甲州流
          軍学者の近藤正純のもとでそれ以前から行われていたようである。承応元年(1652)には
          山鹿素行も招かれ、二の丸虎口に山鹿流軍学に基づく改変が加えられた。城は、足掛け
          13年を経て、寛文元年(1661)に完成した。赤穂城には、天守台は設けられたものの天守
          は建設されなかった。しかし、計画がなかったわけではなく、城下の花岳寺には五層天守
          の模型が存在する。
           元禄十四年(1701)、長直の孫長矩は、有名な江戸城殿中松之廊下における刃傷事件
          を起こし、切腹を命ぜられた。赤穂藩も改易となり、城は龍野藩主脇坂安照が受け取り、
          管理した。同年、永井直敬が烏山より3万3千石で入封したが、宝永三年(1706)には飯山
          へ転封となった。代わって、西江原藩主森長直が2万石で赤穂に入った。長直の系統は、
          津山藩改易後の森家の本家筋にあたる。
           この後、明治維新まで森家が12代(13代とも)続いた。


       <手記>
           赤穂城は、千種川河口右岸に位置し、かつては三の丸以外は海に突き出ていました。
          中世には、この地を治める岡氏の加里屋城(赤穂古城)があり、近世赤穂城は中世の城
          を踏襲したものといわれることもありますが、中世の在地領主の城館が海中にあったとは
          考えにくく、城下の寺町付近であろうと考えられています。
           現在、城跡は至る所で整備工事が進められています。大河ドラマで忠臣蔵を扱ったのも
          今は昔、なぜ今になって?という疑問は湧きますが、史跡が整備されるのは喜ばしいこと
          です。それまでの赤穂城址というと、想起されるのは二重の北隅櫓の建つ大手でしょう。
          この櫓や門や塀などは、昭和三十年(1955)に復興されたものだそうです。大手に限らず、
          三の丸は大石神社によってかなり破壊されています。大手桝形も、かつては右に折れて
          いたところ、左曲がりにされていたのですが、近年になってもとの右曲がりに石垣が復元
          されました。
           私が訪れたときは本丸の整備がほぼ終わっていて、二の丸が鋭意工事中でした(本丸
          門桝形に重機が入っていましたが)。本丸には、北の本丸門と東の厩口門が復元されて
          いるほかに建物はなく、御殿跡が地表復元されています。天守台にも登ることができます
          が、海抜0mの平城ですから城下を一望とはいきません。かといって、ここに天守を建てた
          ところで、とりわけ軍学的には百害あって一利なしですから、模型が作られたからといって
          天守造営の意思があったようには思えません。
           本丸を輪郭式に取り巻く二の丸は、東西2つの仕切門によって南北に2分されています。
          このうち、西の仕切門が復元され、その北側には二の丸庭園が造営中でした。二の丸の
          南半分は、海にもっとも突き出した部分で、南端付近には水の手門跡があります。門こそ
          復元されていませんが、舟入りや水揚げされた品々を収める蔵が復興されており、城内の
          みどころの1つとなっています。
           赤穂城の一番のみどころは、おそらくその縄張りでしょう。江戸時代も元和偃武を過ぎた
          天下太平の世に、甲州流軍学に基づいてじっくりと設計されたためでしょう。他の近世城郭
          と比べても、特徴深い縄張りをしています。とくに、ヒトデのように鋭角な横矢が連なる本丸
          と二の丸、そして大手口自体が出桝形のように張出した三の丸が目を惹きます。単郭矩形
          の池田氏時代の面影はまったくなく、池田氏時代の城をたたき台としながらも、「築城」に
          13年を費やしたというのも納得です。
           この鋭角を多用した縄張りについて、資料によってはヨーロッパの稜堡式を取り入れた
          先取的なものとしています。しかし、稜堡式が日本で用いられるようになるは幕末になって
          からであり、まして大砲戦を顧みているとは思えない甲州流軍学が、五稜郭に2世紀以上
          も先立って稜堡式城郭を設計したとは、正直考えられません。実際、稜堡式であれば砲座
          が置かれていなければならない鋭角部の先端は、櫓台となっているところが少なくなく、
          また稜堡がもっとも必要な外郭の三の丸には、鋭角部がほとんどなく、旧来の横矢折れを
          基調としています。これらのことから、赤穂城の一見稜堡式に似た縄張りは、あくまで死角
          をなくすべく横矢掛かりを張り巡らせた結果であり、どうしても死角が生じてしまう鋭角部の
          先端には、櫓を設けて対処したものと考えられます。
           ちなみに、赤穂はJR西日本の新快速に乗れば、大阪や京都からでも1本で来ることが
          できます。新幹線を使わずとも座ったまま到着できるので便利です。

           
 三の丸大手の復興隅櫓など。
大手門跡のようす。 
 復元された大手桝形。
大石内蔵助邸跡長屋門。 
 二の丸の堀と石垣。
 画面奥は二の丸一重櫓台。
二の丸門脇の堀跡。 
 二の丸門跡。
本丸門を望む。 
 天守台。
天守台から本丸内を俯瞰。 
 本丸東側の厩口門。
本丸南西隅の石垣。 
画面右手奥の凹部は刎橋門跡。 
 水の手門跡。
本丸東北櫓跡。 
 三の丸東端清水門跡。


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