芥川城(あくたがわ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 芥川氏
 遺構  : なし
 交通  : JR東海道本線高槻駅徒歩15分


       <沿革>
           土豪芥川氏の居城であるが、同氏の出自については詳らかでない。西国街道芥川宿を
          押さえて発展した御家人と考えられているが、史料に登場するのは鎌倉時代末期の芥川
          信時が最初である。また、大和西大寺の僧叡尊が芥川で説法を行い、後に芥川影信なる
          人物が叡尊に帰依して出家している。影信は信時の父親とも考えられているが、確証は
          ない。
           芥川氏は、信時の跡を継いだ外孫の信貞の代に南北朝時代を迎え、勢力を拡大した。
          このころに芥川城も整備されていったものと考えられている。応仁元年(1467)の応仁の
          乱に際して、芥川氏は東軍に属して戦ったが、いつしかその名は歴史の表舞台から消え
          去ってしまった。芥川城の動静についても不明である。
           永正六年(1509)の如意ヶ嶽の戦いで、細川澄元方に属する摂津国衆の武将として、
          芥川豊後守の名がみられる。ただし、豊後守が信貞の後裔なのか、また芥川城に住して
          いたのかなど詳しいことは明らかでない。さらに、澄元の重臣三好之長の子長光もまた、
          芥川氏を称していた。豊後守との関係はやはり不明だが、之長の意を受けて芥川氏を
          継承したものであることは間違いないと思われる。しかし、長光が芥川城を使用していた
          のかはやはり定かでない。長光は、永正十七年(1520)の等持院の戦いで細川高国に
          敗れ、父や他の兄弟らとともに処刑された。
           同年、高国の意を受けた能勢氏によって現在の三好山に新しく芥川山城が築かれた。
          史料上はこちらも芥川城と呼ばれているため、以後の史料にみられる「芥川城」がどちら
          を指すのかは、その都度判断しなければならない。平地の芥川城を廃して三好山の城を
          築いたとする説や、平地の芥川城は三好山の城の平時の居館として利用され、両者を
          併せて芥川城と呼んだとする説もある。後者の場合、元亀四年(1573)に当時の芥川山
          城主高山友照・重友(右近)父子が、高槻城の和田惟長を追放して移った際に、廃城と
          なったものと推測される。


       <手記>
           芥川城は、存在したであろうということ以外は、ほとんど不明の城です。一応、今日の
          殿町周辺にあったと考えられていますが、遺構はありません。比定地の住宅街の一角
          (上の地図の緑点付近)に、石碑が建てられているのみです。
           比定地は、芥川が東から南へと向きを変える河岸の沖積地にあり、南側を西国街道が
          走っています。

           


芥川城址碑。


BACK