芥川山城(あくたがわさん) | |
別称 : 芥川城、三好山城、城山城、原城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 能勢氏 | |
遺構 : 曲輪跡、石垣、土塁、堀、虎口、土橋、櫓台 | |
交通 : JR東海道本線高槻駅よりバス 「塚脇」バス停下車徒歩20分 |
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<沿革> 高槻市内には「芥川城」と呼ばれる城が2つあり、混同を避けるため便宜上平地の方を芥川城、 山城の方を芥川山城と呼びならわしている。史料上はどちらも芥川城として登場するため、どちら を指しているのかその都度推察しなければならない。 芥川山城は、摂津能勢地方から進出した能勢氏によって築かれたとされる。『瓦林正頼記』の 永正十七年(1520)十月の条に、芥川の北の山に城が築かれ、築城にあたり昼夜兼行で300〜 500人の人夫が動員されたことが記されている。工事の規模から、当時能勢氏が属していた細川 高国の意向を汲んだものと考えられている。初代城主は能勢頼則とされているが、頼豊や頼勝と いった名も伝わっておりはっきりとしない。また、頼則以降は頼明・国頼と続いたといわれるが、 頼明と国頼は同一人物とする向きもある。 大永六年(1526)、高国が重臣香西元盛を殺害すると、元盛の2人の兄波多野稙通・柳本賢治 が丹波で挙兵した。翌年、桂川の戦いで高国が敗れて近江へ逃れると、芥川山城はじめ摂津の 諸城は稙通らに押さえられたものと推測されている。能勢氏については、その後も細川野州家と の間に書状が交わされていることから、高国派に留まり芥川山城を去ったものと考えられている。 しばらく城の利用状況は不明となるが、一向宗との戦いで淡路に退いていた細川晴元が天文 二年(1533)に入城した。以後、芥川山城は晴元の摂津での軍事拠点として拡充されていった。 同十年(1541)には城下が放火され、晴元から離反した木沢長政との攻城戦があったものとみら れている。 晴元と敵対した三好長慶が、天文十八年(1549)の江口の戦いで一族の三好政長を討ち死に させ、晴元を近江へ追いやると、芥川山城もまもなく長慶の手に落ちた。長慶による芥川山城の 攻略は同十六年(1547)ともいわれるが、このときはまだ長慶と晴元の関係は崩れていなかった ため、詳細は不明である。いずれにせよ、長慶は獲得した芥川山城に芥川孫十郎を入れた。 孫十郎は、長慶の父元長の従弟とされる。 天文二十二年(1553)、孫十郎が謀叛を企てたとして、長慶は芥川山城攻略の兵を起こした。 これを好機として細川晴元も挙兵したため、長慶は兵を二分して一方に芥川山城を包囲させた うえ、自身は晴元への対処にあたった。晴元は敗れて近江へと逃れ、長慶は芥川山城攻略に 加わり、1か月ほどの包囲戦の後に孫十郎は降伏した。 芥川山城には長慶自身が入り、居城として拡張整備された。永禄三年(1560)、長慶は居城を 飯盛山城へと移し、代わって長慶の嫡子義興が芥川山城主となった。しかし、義興は3年後の 同六年(1563)に22歳の若さで没し、三好三人衆の1人三好長逸が城主となった。長逸は芥川 長光の子、ないし長光の弟長則の子とされ、前出の孫十郎とは兄弟または従兄弟ということに なる。翌七年(1564)には長慶も世を去り、三人衆や松永久秀らの間で畿内の覇権争いが繰り 広げられた。同十一年(1568)に足利義昭を奉じた織田信長が入京すると、長逸は芥川山城に 籠って抵抗したが、わずか1日で攻め落とされたという。城主には幕臣和田惟政が任じられた。 翌永禄十二年(1569)に本圀寺の変が起こると、惟政はいち早く京の義昭のもとへ駆けつけ、 三人衆を撃退した。この功により惟政は高槻城を与えられ、居城を移した。芥川山城には家臣 高山友照が入れられたとされる。しかし、惟政は摂津で新興してきた荒木村重・中川清秀らと 対立し、元亀二年(1571)の白井河原の戦いで戦死した。惟政の跡は子の惟長が継いだが、 同四年(1573)に友照・重友(右近)父子が惟長を追放して自ら高槻城主となった。芥川山城は これをもって廃城となったとみられている。 <手記> 芥川山城は、芥川が北から西、南へと流れぬける三好山一帯に築かれた城です。西と北は 摂津峡の断崖となっていて、東側が峰続きとなっています。城山へは、この東側の鞍部を越え る峠道から辿りつくことができます。塚脇のバス停前から案内が出ているので、それに従えば 迷わないと思います。 三好山は、西端の山頂周辺のほか東に2つの小さなピークがあります。芥川山城は、これら 3つのピークをそれぞれ城域としています。便宜上、ここではこれらの城域を西城・中城・東城と 呼ぶことにします。主城域は西城になります。かつての大手は、西城と中城の間の谷に沿って 開かれていたとされています。この方面は現在集落となっていますが、道ははっきりとは残って いないようです。この大手が行きつく西城と中城の間の土橋下方には、現状目にできる唯一の 石垣遺構があります。この石垣は、曲輪を形成するでもなく虎口を固めるわけでもなく、大手の 谷の傾斜を保つための土留めとして築かれたのではないかと考えられます。縄張り図を見ると、 大手口を守るために西城と中城の南側斜面に多くの曲輪が設けられていることが分かります。 芥川山城に続く長慶の居城である飯盛山城にも、やはり同様の土留め石垣が散見されます。 西城は、地元保存会の手で公園化が進んでいるようですが、それでも主郭とその下の曲輪 以外は、私が訪れたときには樹木に覆われていました。また、中城の中心部以南にはイノシシ 除けの金網が張られていて、立ち入ることができません。 さて、西城および中城が、比較的広い曲輪を並べて大手からの敵を兵力で迎え撃とうとする プランであるのに対し、東城からは曲輪に施された防御設備によって、東側からの敵の侵入を 食い止めようとする防御思想が読み取れます。すなわち、東城には竪土塁や櫓台をもつ曲輪、 土塁で囲まれた曲輪といった西の2城域にはない特徴がみられます。また、東城と中城の間は 堀切と土橋で隔絶されています。おそらく、東城は最も遅くに拡張された部分であると推測され ます。 このように、芥川山城は細川氏および三好氏の城のようすを知るうえで貴重な特徴を数多く 有しており、また南から登る分には険しくもなんともない山なので、城郭ファンならずとも歴史を 学びながら適度なハイキングを楽しめる格好の城跡であると思います。 |
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芥川山城址遠望。 | |
本丸のようすと城址碑。 | |
本丸からの眺望と主郭下の腰曲輪。 | |
主城域(西城)の曲輪。 | |
同上。 | |
大手口の石垣。 | |
東城と中城の間の堀切と土橋。 | |
東城の土塁で囲まれた曲輪。 | |
土塁で囲まれた曲輪の虎口。 | |
東城の竪土塁。 | |
東城の櫓台のある曲輪。 |