雨滝城(あめたき) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 安富盛長 | |
遺構 : 曲輪、石塁、土塁、堀、虎口 | |
交通 : JR高徳線讃岐津田駅徒歩40分 | |
<沿革> 讃岐の有力国人安富氏の居城である。安富氏は紀姓とも多田源氏ともいわれ、 下総国に出自をもつとされる。足利尊氏に従って播磨国三日月郷を拝領し、応永 年間(1394〜1427)までには細川氏に臣従して讃岐守護代となった。 応仁の乱に際して細川四天王の1人にまで数えられた安富盛長は、長禄年間 (1457〜61)に近隣の土豪寒川氏から寒川郡内の鶴羽・鴨部・志度の3郷を割譲 させ、雨滝城を築いて移った。 その後も安富氏は細川京兆家の重臣として活躍したが、永正四年(1504)の 永正の錯乱で細川政元が暗殺されたころを境に、勢力を失っていった。盛長の孫 とされる盛方は、阿波の戦国大名三好氏に臣従して家名を保った。 元亀元〜三年(1570〜72)ごろ、盛方の子盛定は舅で三好氏重臣の篠原長房 と図り、主君三好長治の名の下で寒川元隣に大内郡内の4郷を割譲させた。安富 領と三好領が直に接するようにするための画策といわれている。盛定は元隣の 居城であった虎丸城に移り、雨滝城には安富家臣六車宗湛(宗旦)が置かれた。 天正十一年(1583)、阿波を平定した長宗我部元親が讃岐へ侵攻すると、三好 方は羽柴(豊臣)秀吉に救援を依頼し、盛定は小豆島で援軍の大将仙石秀久を 出迎えた。しかし、秀久は引田の戦いで長宗我部勢に敗れて撤退した。雨滝城 は敵中に孤立し、宗湛はやむなく元親に降伏した。 『南海通記』によると、雨滝城はそのまま宗湛の守るところとなった。天正十三年 (1585)に秀吉が四国を平定すると雨滝城も廃城となったと思われるが、攻城戦が あったか否かは定かでない。 <手記> 雨滝城は、北東に津田湾を望む標高253mの雨滝山に築かれています。高さ のわりに険しい山容で遠くからでもよく目立つ山です。山の規模だけなら、西讃 で半戦国大名化するまでに至った香川氏の居城天霧城にも匹敵する感じです が、安富氏の方は戦国時代には今ひとつパッとしなかったようで、少々不釣り 合いなようにも思います。 車であれば、南東中腹の雨滝自然科学館に駐車場があります。その先には 林道が伸びていて、南北2ヶ所の登城口に接しています。私は駐車場に停めて 歩きましたが、登城口脇にも十分駐車できるスペースがありました。北の登城 口には案内板が設置されていますが、南側は入り口・ルートとも下から見ると わかりにくいので、北から登って南から降りるコースをおすすめします。徒歩なら 北東麓から登るのが最短ですが、途中の道が残っているかは未確認です。 城は山頂の本丸を中心に、北西・北東・南東の三方に伸びる尾根筋に曲輪を 連ねる構造をしています。北西尾根に堀切や竪堀らしき痕跡が認められるほか に堀はなく、虎口にも工夫はみられません。そのかわり、発掘調査の結果曲輪 の多くに建物があったと推定されていることから、山そのものを要害として立て 籠もる防衛思想の城だったと拝察されます。決して手をかける気がなかったの ではないことは、ところどころに石積み跡が見られることからもうかがえます。 |
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雨滝山遠望。 | |
本丸のようす。 | |
山頂の説明板。 | |
本丸からの眺望。 眼下に伸びているのは津田の松原。 |
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本丸北西の虎口。 | |
北西尾根の曲輪の虎口。 | |
北西尾根の曲輪。 | |
北西尾根の竪堀跡か。 | |
同じく堀切跡か。 | |
同じく竪堀跡か。 | |
北東尾根の曲輪。 建物は金毘羅神社か。 |
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北東尾根の土塁。 | |
本丸の石積み。 | |
南東尾根の曲輪。 |