穴吹城(あなぶき)
 別称  : 穴吹塁
 分類  : 平城
 築城者: 西山兵庫助か
 遺構  : なし
 交通  : JR徳島線穴吹駅徒歩15分


       <沿革>
           『阿波国郡村誌』の「穴吹塁」の項に、延元二/建武四年(1337)に西山兵庫助が築き、天文
          二十一年(1552)に細川真之が居住し、天正七年(1579)十二月に長宗我部元親が攻略したと
          する古老の口伝を載せている。旧東祖谷山村(現・三好市)の西山に伝わる『西山文書』には、
          正平二十四年(1369)に「右馬助」なる人物が、西山兵庫助に「穴吹庄内葛雲之三間」の知行を
          申し伝える旨の書状が残っている。
           一方、天文二十一年時点では真之の父・氏之(持隆)がまだ存命で家督にあり、真之が穴吹
          に移り住む理由がなく、一般に俗説とされている。『異本阿波志』などでは持隆の殺害を受けて
          真之が穴吹へ避難したとしているが、三好実休が氏之を殺したのは翌二十二年(1553)のこと
          である。
           『日本城郭大系』では西山兵庫助の築城は伝承に過ぎず、細川氏の一族が居城したのだろう
          と推測しているが、穴吹城の来歴は杳として明らかでない。


       <手記>
           穴吹字藪ノ下が穴吹城跡とされ、現況は穴吹スポーツセンター(旧公民館)となっていて遺構
          はありません。山上などの要害地形ではなく、山を背負った平地の裾野という選地は、西方の
          貞光城と類似しています。おそらくは、穴吹川流域を領する在地勢力の平時の館城であったと
          推察されます。
           しかしてその主が誰であったかが、穴吹城についての最大の論点といえるでしょう。『大系』
          では西山兵庫助築城説を否定していますが、兵庫助が穴吹付近を領していたことは間違いない
          とみられ、地元の古老がその名を記憶していたとしても不思議ではありません。他方で、真之が
          拠ったとする伝については私も懐疑的です。真之は氏之を弑した実休によって代わりの傀儡と
          してすぐに擁立されているので、穴吹に逼塞する理由も時間的余裕もなかったはずです。東方
          の井上城には和泉半国守護の細川氏が4代にわたって居住しており、これとの関連も考えられ
          ますが、戦国期の城主についてはいずれも推論の域を出るものではありません。

           
 穴吹城跡に建つ穴吹スポーツセンター。
センター前のようす。 


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