井上城(いのうえ)
 別称  : 川田城、泉館
 分類  : 平城
 築城者: 細川常有
 遺構  : なし
 交通  : JR徳島線阿波山川駅からバスに乗り、
      「川東」下車徒歩10分


       <沿革>
           『応仁武鑑』によれば、宝徳二年(1450)に和泉半国守護・細川常有によって築かれたとされる。
          常有の4代祖先で和泉上守護家の初代にあたる細川頼有は、阿波守護・細川頼春の子といわれ、
          その縁で阿波国内に所領を有していたものと推測される。
           頼有の子・頼長は和泉へ赴き、岸和田城(古城)を同家の居城としたが、他方で常有から元常
          までの4代にわたり、井上城に居住したともいわれる。別称の泉館は、同氏が和泉屋形と尊称され
          たことによるものと考えられているが、井上城の南方に柳の井という名泉があったことにちなむと
          する伝承もある。
           元常は管領・細川政元に仕えて上洛し、井上城には谷馬之助を代官に入れた。しかし、政元が
          永正四年(1507)に暗殺されると(永正の錯乱)、谷氏が同五〜七年(1508〜10)に背いたため、
          讃岐の神崎城主・土肥因幡守綱真に命じてこれを討たせた。後任の代官には綱真と丹治右京亮
          常直が充てられた。なお、元常は細川晴元に属して三好長慶に敗れ、井上城にて天文二十三年
          (1554)に没したともいわれる。ただし、敵対した三好氏の勢力圏である阿波国内に留まることが
          できたのか、疑問が残る。
           『阿波志』によれば、永禄年間(1558〜69)に綱真の子とされる康信が常直を殺害し、三好氏に
          従属した。天正七年(1579)の脇城外の戦いでは、康信の弟ないし甥とされる土肥紀伊守秀実が
          三好方として参戦し、討ち死にしたとされる。ただし、現地には土肥紀伊守庸吉と同右衛門尉昌秀
          のものとされる墓が建ち、康信の事跡は庸吉に比されている。
           天正十年(1582)、井上城は長宗我部元親に攻められて落城し、秀実の弟・庄五郎(荘五郎)は
          後に豊臣秀次に仕えたといわれる。井上城もそのまま廃城となったとみられるが、確証はない。


       <手記>
           川田川沿いの緩やかな台地上に築かれた城です。明確な遺構は見られませんが、横一直線の
          段丘面とその両側に城域の両端とみられる谷戸が切れ込んでおり、外郭のラインを推定するのは
          難しくありません。
           城域の中心付近とみられる生活道路沿いの耕地の中に、上述の土肥庸吉・昌秀の墓と説明板
          があります。周辺は湧水が多く傾斜も緩やかで、かつては「川田三千石」と称されたほど生産性が
          高かったというのも納得です。和泉へ移った後の細川氏がわざわざこの地に戻ったとは考えにくい
          のですが、貴重な収入源としてこの地を重視し、そして代官土肥氏が野心を逞しくしたというのも、
          この土地の豊かさを思えばむべなるかなと感じました。

           
 説明板と土肥庸吉・昌秀の墓。
城内から川田川流域方面を望む。 


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